その海は、どこまでも青かった。
空の青とも違う、群青とも紺碧とも違う、深くて澄んだ、どこか懐かしい色――コバルトブルー。
まるで誰かの記憶の中からすくい上げたような、そんな色だった。
遥は、毎年夏になると祖母の住む離島を訪れていた。
島には電車も信号もなく、商店はたった一軒。
けれど、コバルトブルーの海だけは、どんな都会のものよりも遥の心を震わせた。
「今年も来たのね、遥ちゃん」
港に着いた遥を迎えたのは、祖母の穏やかな笑顔と、潮の香りを運ぶ風だった。
祖母の家は高台にあり、縁側からは海が一望できた。
波の音は風とともに部屋まで届き、夜には虫の声と重なって、遥を心地よい眠りへと誘った。
ある日の午後、遥は一人で浜辺を歩いていた。
白い砂浜に素足を沈めながら、遥はふと子供のころの記憶を思い出す。
――あの少年は、今どこにいるのだろう。
遥が小学生だった頃、毎年夏にこの島で出会っていた少年がいた。
名は海翔(かいと)。
地元の漁師の息子で、焼けた肌といたずらっぽい笑顔が印象的だった。
二人はよく浜辺で貝殻を集めたり、秘密基地を作ったりした。
「ここだけの宝物だよ」
海翔はそう言って、遥に青く光るガラスのかけらを渡した。
波にもまれて角が丸くなったそのガラスは、まるで小さな宝石のようだった。
「この色、コバルトブルーっていうんだ」
その言葉が、遥の中でずっと残っていた。
だが、中学に上がる頃から、遥は島に来ることができなくなった。
受験や部活に追われ、島はどんどん遠い場所になっていった。
気づけば、あの海も、海翔の存在も、記憶の奥に沈んでいった。
再び島に戻った今、遥はあの夏の続きを探していたのかもしれない。
翌日、祖母から耳にした。
「海翔くん? そうねぇ……数年前に島を出て、今は本土で働いてるらしいよ。たまに漁の手伝いに戻ってくるけど、最近は見ないね」
やはり、もう会えないのかもしれない。
遥は諦めかけていた。
だが、最終日。
島を発つ朝、港へ向かう途中の岬で、遥は一人の青年とすれ違った。
日焼けした肌、風になびく髪、どこか懐かしい瞳。
「……海翔?」
彼は驚いたように立ち止まり、そしてゆっくりと笑った。
「遥……か? まさか、ほんとに……」
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ潮風の中に立っていた。
時間が止まったような、そんなひとときだった。
「……まだ持ってるよ、あのガラスのかけら」
遥がそう言うと、海翔は目を丸くして笑った。
「俺も、まだ覚えてる。おまえが泣いたとき、どうすればいいかわかんなくて、とりあえずあれ渡したんだよな」
「泣いてない!」
思わず声を上げて、二人で笑い合った。
フェリーの汽笛が遠くで鳴った。
「じゃあ……また、来るよ」
「うん。今度はもっと、長くいてくれよな」
遥が船に乗り込むと、海翔は岸壁から手を振った。
海の向こうへと遠ざかる中、遥の胸には、不思議な温かさが残っていた。
コバルトブルーの海は、今日も変わらず広がっている。
まるで、失われた時間を優しく包むように――。