白い猫とラングドシャ

食べ物

東京・中目黒の裏通りに、ひっそりと佇む小さな焼き菓子のお店がある。
ガラス張りの扉を開けると、バターとアーモンドの甘い香りがふんわりと鼻先をくすぐり、奥の棚には宝石のように美しいラングドシャクッキーが並んでいる。

この店、「NekoLange(ネコランジュ)」を営むのは、三宅紗耶(みやけ・さや)、三十二歳。
元は都内の広告代理店で働くOLだった。
華やかだが競争の激しい世界に身を置いていた彼女が、突然退職し、まったく畑違いのクッキー屋を始めたのは、誰もが驚いた。

きっかけは、祖母の死だった。

祖母は北海道の小さな町で、町内に一軒しかないお菓子屋を営んでいた。
紗耶が小さい頃に作ってくれたのが、薄く焼き上げたラングドシャに、祖母特製のレモンバタークリームを挟んだものだった。

「このクッキーは、手間ひまをかけて、やさしく焼くんだよ。心がざわざわしてると、うまく焼けないんだ」

祖母はそう言って、笑った。

東京の喧騒に疲れ果てた紗耶は、ある日、ふと祖母の遺したレシピ帳を読み返した。
そこには、ぎっしりと書き込まれたクッキーのレシピと、端に小さな字で書かれた「お客さんに喜んでもらうための工夫」があった。

それが、彼女の心を動かした。

クッキーを焼き始めたのは趣味の延長だったが、少しずつ「紗耶さんのクッキーをまた食べたい」という声が増え、いつしかイベントやマルシェに出店するようになった。
自分の焼いたもので誰かが笑顔になる――その喜びを、彼女は広告の世界で一度も味わったことがなかった。

とはいえ、店を出すのは容易ではなかった。

場所探し、資金調達、保健所の許可。
何より、「この道で本当に生きていけるのか」という不安が彼女を襲った。
支えてくれたのは、友人たちと、偶然拾った一匹の白猫だった。
猫は彼女が夜な夜な試作をするキッチンの片隅で丸くなり、焼き上がりの匂いに目を細めた。

「この子がそばにいると、不思議と心が静かになるの」

そう言って、紗耶は店名に「猫」と「ラングドシャ(仏語で“猫の舌”)」を掛け合わせた。

開店当日、予想を遥かに超える客が訪れた。
SNSで口コミが広がり、「まるで絵本から出てきたようなクッキー」と話題になった。
定番のバニラ&バター、季節限定の紫芋と黒糖、そして祖母のレシピそのままのレモンバターサンド。
いずれも、紗耶の細やかな感性が光っていた。

だが、順風満帆というわけではなかった。
人気が出れば、当然プレッシャーも増す。
大量生産を求める声に揺れ、店舗拡大の話も舞い込んだ。
それでも彼女は、あの日祖母が言った言葉を胸に、小さなオーブンで丁寧に焼き続けた。

「ざわざわした心じゃ、うまく焼けないから」

そして今日も、白猫が店の奥の棚の上でくつろぎ、紗耶はバターを計量する。
クッキーの焼ける匂いと、静かな午後。
訪れた客がそっと微笑むたびに、彼女は思うのだ。

「あの頃、勇気を出してよかった」と。

ラングドシャは、ただの焼き菓子ではない。
誰かの心に寄り添い、記憶を紡ぐ、小さな魔法なのだ。