朝陽のポーズ

面白い

最初は、ただの気まぐれだった。

三十歳を目前にした春、会社の健康診断で「運動不足による軽度の高血圧」と診断された中原詩織は、帰り道にふらりと立ち寄った駅前のヨガスタジオに足を踏み入れた。
受付の女の子が笑顔で差し出した体験レッスンのパンフレットに、なんとなく「やってみようかな」と思った。
それだけだった。

それが、彼女の人生を変えるとは思ってもいなかった。

初めてのヨガは、正直に言って苦痛だった。
体は硬く、腕はプルプル震え、インストラクターの「呼吸を深く、意識を内側に」という言葉にも戸惑うばかり。
しかし、レッスンの最後、シャヴァーサナ(屍のポーズ)と呼ばれる寝転がるポーズのとき、不思議な感覚が訪れた。

目を閉じて深く呼吸すると、頭の中の雑音がすうっと消えていく。
会社のストレスも、SNSの通知も、週末の予定も、すべてが遠のいていった。静けさの中に、自分自身だけがいた。

――これが、「整う」ってことなのかもしれない。

それから、詩織は週に一度、二度、そして気づけば毎日のようにスタジオに通うようになった。

ヨガマットを買い、オーガニックなウェアを揃え、プロテイン代わりにスムージーを飲み始めた。
会社のランチタイムも、近くの公園で太陽礼拝をするようになった。
最初は冷ややかだった同僚たちも、彼女の肌つやや姿勢の良さに驚き、次第に「私もやってみようかな」と声をかけるようになった。

だが、詩織にとってヨガは美容でもファッションでもなかった。

それは、日々を生き抜くための「武器」だった。

ヨガを始めて半年が経ったある日、詩織は部署のリーダーに昇進した。多忙を極め、責任も増す中、彼女の心のバランスを保っていたのは、毎朝のヨガだった。
ベッドから起きてマットに立ち、深く息を吸い込む。
体を伸ばし、自分の内側と対話するその時間が、嵐のような一日をしなやかに乗り越える力をくれた。

そして一年が経つ頃、詩織はある決断をする。

――ヨガインストラクターの資格を取ろう。

ヨガの哲学を学ぶ中で、彼女はただポーズを取ることだけがヨガではないことを知った。
呼吸、思考、行動、生き方そのものがヨガなのだということに、深く心を打たれた。

休日のたびに講座に通い、夜はテキストを読みふけった。
人に教えることの難しさにも直面したが、自分の成長を感じるたび、心は満たされていった。

そしてある春の日、詩織は初めて自分のクラスを持った。
小さなコミュニティセンターの一室。
集まったのは主婦やシニア、学生など、バラバラな背景を持つ十数名。

緊張しながらも、詩織はいつものように言った。

「では、まずは呼吸から始めましょう。今日一日の自分に、優しく意識を向けてください」

その瞬間、彼女は思った。

――ここが、私の居場所かもしれない。

ヨガは彼女に、ただの健康を与えただけではなかった。
自分と向き合うこと、他人と比べないこと、今この瞬間を大切にすること。
そんな小さな「気づき」を通して、詩織は以前よりも、ずっと柔らかく、ずっと強い人間になっていた。

太陽の光が差し込むスタジオで、彼女は静かに両手を合わせた。

「ナマステ(あなたの中の神聖な存在に、敬意を)」

ヨガにハマった――いや、ヨガと共に生きることを選んだ一人の女性の、物語は、まだ始まったばかりだった。