朝の空気は、まだ少し肌寒かった。
桜の花びらが風に舞い、歩道に淡いピンクの絨毯をつくっている。
「今日も走ろう」
内田陽平(うちだようへい)、35歳。
都内の広告会社に勤めるサラリーマン。
営業職で毎日遅くまで働き、日々のストレスも少なくない。
それでも、彼が毎朝5時に起きてランニングを欠かさないのには、理由があった。
「走ってるときだけ、全部忘れられるんだよな」
学生時代、彼は陸上部に所属していた。
成績は中の上。
全国大会には手が届かなかったが、風を切るあの感覚が好きだった。
社会人になって数年は走る余裕もなかったが、三十を過ぎた頃からふたたび走ることの魅力を思い出した。
きっかけは、父親の急逝だった。
「もっと身体を大事にしておけばよかった」
そう遺した父の言葉が胸に残り、陽平はランニングを再開した。
気づけば日課となり、今では月に一度は市民マラソンに参加するまでになった。
この日も、陽平は自宅から5km先の川沿いのコースまで走っていた。
耳には音楽。
けれど、景色の中にふと見慣れない姿があった。
「……あれ?」
高校のユニフォームを着た少女が、ひとりで懸命に走っている。
フォームは少し乱れていたが、その目は真っ直ぐだった。
陽平はペースを少し落とし、隣を並走する。
「こんにちは、調子いいね」
少女はびっくりしたようにこちらを見たが、すぐに口元を引き締めた。
「……こんにちは。今はあんまりよくないですけど、頑張ってます」
「陸上部?」
「はい。今度、大会があるんです。でも最近、タイムが伸びなくて……」
陽平は自分が高校生だった頃を思い出した。
あの頃も、何かに追われるように走っていた。
「理由があるから、君はまだ走ってるんだろう? それだけで、たいしたもんだよ」
少女は黙ってうなずいた。
陽平は、川沿いのベンチで小休止する少女にペットボトルの水を渡すと、自分も腰を下ろした。
「速くなるには、速く走るだけじゃダメなんだよ。リズムとか、姿勢とか。俺も昔、コーチにそう言われた」
「おじさん、昔、走ってたんですか?」
「うん。今でも走ってるけどね」
「へぇ……いいな。大人になっても走っていられるなんて」
少女の目が少しだけ柔らかくなった。
陽平はふと笑って立ち上がった。
「じゃあ、一緒にラスト1kmだけ全力で走ってみる?」
少女は驚いた顔をしたが、うなずいた。
「……お願いします!」
スタートと同時に、二人は風になる。
陽平は一歩一歩に集中し、少女の足音を感じながら走る。
昔よりは衰えたが、心の芯はまだ熱かった。
走ることでしか感じられない自由が、確かにそこにあった。
ゴール地点。
少女は息を切らしながらも、満足そうに笑っていた。
「ありがとうございました。ちょっと、何かつかめた気がします」
「俺も、なんだか元気もらったよ」
その日以来、陽平は週に一度、その川沿いのコースを走るたびに、少女とすれ違うようになった。
お互いに言葉は交わさずとも、走ることでつながっていた。
そして、ある日。
「大会、優勝しました!」
その報告を受けた陽平は、心からの拍手を送った。
風の中を走るその姿を見て、彼自身もまた、初心を思い出していた。
走ることに理由はいらない。
ただ、風になる瞬間を求めて。