古川紗季(ふるかわ さき)は、どこに行くにもオレンジのアロマオイルを持ち歩いていた。
小さな瓶をバッグに忍ばせ、疲れたときや落ち込んだとき、そっと蓋を開けては香りを吸い込む。
甘くて、少し酸っぱくて、太陽のように明るい香り。
その香りだけが、彼女を過去から切り離してくれる唯一の手段だった。
紗季がオレンジの香りに出会ったのは、七年前の春だった。
まだ高校生だった頃、母親が病院のベッドで最期を迎える前に、彼女に言った。
「あなたはね、オレンジの香りが似合う女の子になるよ」
それがどういう意味か、当時の紗季にはわからなかった。
ただ、母の遺品のなかにあった一本のアロマオイル——ラベルが剥がれかけたオレンジの精油——を手に取ったとき、ふと涙が溢れた。
それ以来、紗季は毎朝その香りを纏って出かけるようになった。
仕事が忙しくて心が擦り切れそうな日も、人付き合いがうまくいかず自分を責めてしまう夜も、オレンジの香りがそっと肩を抱いてくれる気がした。
春のある日、そんな彼女の生活に、ひとりの男が現れた。
名前は三島遥人(みしま はると)。
新しく異動してきたデザイナーで、無口で無愛想。けれど彼のデスクの上には、なぜか柑橘系のキャンドルが置かれていた。
「それ、オレンジですか?」
初めて紗季が話しかけたとき、彼は少し驚いたように顔を上げ、そして小さく頷いた。
「…うん。オレンジとベルガモット。気持ちが落ち着くから、いつも使ってる」
その瞬間、紗季は不思議な既視感を覚えた。
香りが重なった。
二人の空気の中に、同じアロマが存在していた。
まるで、それぞれ別の場所で抱えていた何かが、そっと繋がるように。
「私も、オレンジが好きなんです」
それからふたりは、少しずつ言葉を交わすようになった。
忙しい仕事の合間に、アロマや香りの話をする。
それはごくささやかで、でも紗季にとっては特別な時間だった。
ある日、遥人がふとつぶやいた。
「昔、母親がオレンジの香りをよく使っててね。小さい頃、家が貧しくてさ、冷蔵庫に果物なんてほとんどなかった。でも、母がアロマを焚くと、それだけで家中が明るくなったんだ。…香りって、不思議だよな。ないはずのものが、そこにある気がする」
紗季はその言葉を聞いて、胸が詰まった。
自分の過去と、遥人の過去が、どこかで似ている気がした。
大切な誰かを失って、それでも前を向くために、香りを道標にして生きている。
そして、ある雨の日の帰り道。
ふたりは偶然、会社のエレベーターで二人きりになった。
「傘、持ってないんです」
そう言った遥人に、紗季は自分の折り畳み傘を差し出した。
「じゃあ、私と一緒に帰りますか?」
そのとき、彼女のバッグの中から、かすかにオレンジの香りが漏れていた。
遥人は微笑んだ。
「いいね。オレンジの香りのする帰り道、悪くない」
傘の下、ふたりの距離は近かった。
雨の音の中に、ふたつの心の鼓動が混ざり合う。
長い間、誰かと分かち合うことを恐れていた紗季の心に、やさしい光が差した。
香りは、過去を思い出させるだけじゃない。
未来へつなぐ、小さな橋にもなるのだ。
それからも、紗季は毎日オレンジのアロマをバッグに忍ばせて出かける。
ただひとつ違うのは、その香りを好む誰かと、今日という日をともに歩けること。
そして、いつか誰かにこう言えたらいい。
「あなたには、オレンジの香りが似合うね」と。