午後四時のアールグレイ

面白い

日暮れの街は、橙色のヴェールをまとっていた。
東京の外れ、小さな喫茶店「Rainy Bell」では、カップの中からかすかにベルガモットの香りが立ち上っている。

その店の奥、窓際の席にいつも同じ人物が座っていた。
黒縁メガネに、古びたトレンチコート。
年齢は三十代半ば。名前は村上涼。
職業は——誰も知らなかった。
けれども、午後四時になると、彼は決まって「アールグレイをお願いします」と静かに注文する。

店主の花村は、不思議に思っていた。
コーヒーの香りが充満するこの店で、紅茶を頼む客はそう多くない。
ましてや、アールグレイに限って言えば、村上以外に頼む者はいなかった。

「どうして、アールグレイなんですか?」
ある日、花村は勇気を出して尋ねた。

村上は一瞬だけ視線を上げ、そしてふっと笑った。
「……母が好きだったんです。幼い頃、夕方になるとよく入れてくれたんですよ。窓を開けて、風が入ってくる中で。今でも、あの香りをかぐと、あの頃の空気を思い出せるんです」

言葉にしながら、村上の目の奥に一瞬だけ過去がよぎったように見えた。
花村はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、その日から、アールグレイの葉を少しだけ上質なものに変えておいた。

村上が毎日訪れるようになって、店には奇妙な変化があった。
彼の座る席の周りだけ、空気がゆるやかに流れていた。
常連の客たちも「なんだか落ち着くね」と言い出した。
まるで、彼の飲むアールグレイの香りが店全体に静かな調和をもたらしているようだった。

ある日、彼はノートを開き、万年筆を取り出して何かを書き始めた。
花村がそっと覗き込むと、そこには丁寧な文字で物語が綴られていた。

「小説、書かれてるんですか?」
「ええ、まあ。趣味です。でも……アールグレイを飲んでいる時が、一番筆が進むんです。不思議ですね」

それは不思議ではなかった。
香りには、記憶を呼び起こす力がある。
彼にとってアールグレイは、ただの飲み物ではなかった。
それは母との時間であり、かつての家の空気であり、まだ何も失っていなかった頃の、安らぎそのものだった。

数週間後、村上はいつもより少し遅れてやってきた。
そして、一通の封筒を花村に手渡した。

「これ……何かのお礼ですか?」
「いえ。ただの報告です。ある新人文学賞に応募してみたんです。どうにか最終選考まで残ったみたいで」

花村は嬉しくなった。
村上の静かな日常が、言葉という形で誰かに届こうとしている。
それは彼のアールグレイの香りが、誰かの心にも流れていくような感覚だった。

それから間もなく、村上の姿は店から消えた。
ある日を境に、午後四時になっても、ベルガモットの香りは漂ってこなかった。
花村は毎日、ティーカップを一つ余分に並べたが、それが満たされることはなかった。

そして半年後、小さな出版社から一冊の本が届いた。
タイトルは『午後四時のアールグレイ』。
著者名は——村上涼。

本の最後のページには、こんな一文が添えられていた。

「この物語は、あの静かな喫茶店と、丁寧に紅茶を淹れてくれた店主に捧げます」

花村は、アールグレイを一杯淹れた。
ページをめくるたび、店の空気が少しずつあの頃の香りに戻っていく気がした。
窓の外は夕暮れ。
風がそっとカーテンを揺らしていた。