はにわのまにまに

不思議

雨の降る春の日、駅から少し離れた団地の一室に、ひとりの若い女性が引っ越してきた。

彼女の名前は中谷 麦(なかたに むぎ)。
年は二十七。職業は図書館司書。
趣味は――はにわ収集。

「なんでそんなに好きなの?」

とよく聞かれる。
答えはいつも同じだ。

「なんか……こう、静かでいいでしょ。時代に取り残されても、文句ひとつ言わず、そこに居てくれる感じが。」

麦の部屋には、大小さまざまなはにわが並ぶ。
馬形埴輪、踊る人、甲冑を着た戦士、抽象的すぎて何を表してるのかわからないやつまで。
それらを一つずつ、柔らかな布で拭くのが毎日のルーティンだ。

ある晩、仕事帰りにふらりと立ち寄った骨董屋で、奇妙な埴輪と出会った。

顔も身体もやけに精巧で、まるで彫刻のようだった。
しかも、値札にはこう書かれていた。

「これは、ひとりでに歩きます。」

「……うそ。」

つぶやいて、麦は思わず笑った。
けれど、そのとき、埴輪の目が一瞬、こちらを見たような気がした。

買って帰ったその夜、寝静まった部屋の中で、カタリ、カタリと何かが動く音がした。

目を開けると、あの埴輪が、部屋の中を歩いていた。

――歩いている。ほんとに。

恐怖よりも先に、麦は笑い出した。
心の底から、まるで子どもみたいに。

「動くんだ……ほんとに、動くんだ……!」

その日から、麦の生活は少しずつ変わっていった。

朝、目覚めると、埴輪はテーブルの上に座っている。
夜帰ると、台所の隅にいたり、バルコニーで空を見上げていたり。
話しかけても返事はしないが、確かに、彼は生きているようだった。

彼女はその埴輪をハニオと呼んだ。

ハニオは無口で、頑固で、でもそばにいるだけで心が落ち着いた。
まるで、何千年も前の時間をそのまま持ち込んだような、不思議な存在。

あるとき、麦は思い切って、聞いてみた。

「ねえ、ハニオ。あなたは、なんのために生まれて、なんのためにここにいるの?」

もちろん答えはなかった。

でも、麦はその沈黙の中に、なにか大切なものがあるような気がしていた。

日々が過ぎていった。

麦は相変わらず仕事をこなし、はにわを集め、ハニオと静かな暮らしを続けていた。

けれどある日、ふと気づいた。

ハニオが――すこしずつ、土に還りはじめている。

肩が欠け、指が崩れ、粉のような土が床に落ちている。

「やだ……」

麦は震える声で叫んだ。
「やだよ……!なんで?まだ、いないでよ……!」

しかしハニオは、何も言わず、ただ彼女を見つめた。

その目には、優しさも悲しさも、怒りもなかった。
ただ、時間そのもののような、静けさがあった。

そして、春が終わるころ、ハニオは完全に土になった。

麦はその土を小さな鉢に入れ、ベランダに置いた。
そこに花の種を植えた。
ハニオがいた場所から見える空は、変わらず青かった。

数ヶ月後、花が咲いた。

小さくて、素朴な、でもどこか力強い黄色い花だった。

麦はそれに、そっと語りかけた。

「ねえ、ハニオ。あのとき言ってた答え、少しだけわかった気がする。」

生まれて、ただそこにいる。
それだけで、人は救われることがある。

だから、麦は今日も図書館で、静かに本を並べる。
そして夜には、また新しい埴輪を布でやさしく拭く。

はにわは、語らない。

けれど、確かに何かを伝えている。

そして麦もまた、静かに、はにわのまにまに生きていく。