坂の上に、古びた一軒家があった。
町から少し離れたその家には、白髪まじりの老人と、一匹の秋田犬が暮らしていた。
老人の名は中村誠一(なかむら せいいち)。
定年を迎えて十年が過ぎ、今ではこの静かな町で、のんびりとした日々を送っている。
秋田犬の名前は「こはる」。
まだ三歳で、毛並みはふわりとした淡い赤茶色。
誠一にとって、こはるはただの飼い犬ではなかった。
亡き妻・恵子が遺してくれた最後の贈り物だった。
恵子は動物が苦手だったはずなのに、病床でこう言ったのだ。
「あなた、定年してから寂しそうだったでしょう。私がいなくなっても、ひとりにならないようにって…犬でも飼ってみたらどうかしら」
その一言に、誠一は驚いた。
だが恵子の死後、彼女が注文していた小さな木箱が届いた。
中には、秋田犬の仔犬がすやすやと眠っていた。涙が止まらなかった。
それから三年、こはるは誠一のそばにいつもいた。
朝は一緒に散歩に出かけ、昼は縁側で日向ぼっこ、夜は座椅子の横で丸くなる。
こはるは無口で寡黙な誠一の話し相手になった。
「こはる、今日はあの桜の木のところまで行ってみようか」
誠一がそう言うと、こはるは尻尾を軽く振って、嬉しそうに耳をぴんと立てる。
老体に鞭を打って坂道を登る誠一に、こはるはいつも寄り添った。
ある日、町に引っ越してきた若い女性が声をかけてきた。
「こんにちは!その子、秋田犬ですよね?とっても可愛い…!」
彼女の名前は遥(はるか)といい、都会から田舎暮らしを求めて越してきたばかりだという。
動物好きで、特に秋田犬に憧れていたらしい。
こはるを見る目が、子どもみたいに輝いていた。
それから、遥はよく坂を登って遊びに来るようになった。
こはると散歩をしたり、お茶を飲みながら誠一と話をしたり。
誠一の生活に、少しだけ色が戻ってきた。
「こはるちゃん、本当にお利口さん。こんなに人の心を癒す犬がいるなんて…」
遥の言葉に、誠一は小さく頷いた。
「…あの子はね、うちのかみさんがくれたんだよ。俺がひとりにならないようにって」
「奥様、優しい方だったんですね」
「そうだな。犬なんて苦手だったのに、最後は俺のことを考えて…」
言葉を詰まらせた誠一の膝に、こはるがそっと頭を乗せた。
まるで、大丈夫だよと伝えるように。
春のある日、こはるがいつものように坂道を登るのを嫌がった。
誠一が声をかけても、伏せたまま動こうとしない。
病院で診てもらうと、こはるは免疫系の病を患っていた。
急激に進行するもので、余命は長くないと言われた。
誠一は静かにうなずいた。
もう失うことには慣れているつもりだった。
だが、こはるの命が少しずつ細っていくのを見るのは、思っていたよりずっと苦しかった。
その夜、こはるは誠一の横に丸くなりながら、静かに息を引き取った。
翌朝、遥がやって来たとき、誠一は庭に穴を掘っていた。
「こはる、逝ったよ」
「……そうですか」
ふたりは何も言わず、こはるを丁寧に土に還した。
風が静かに吹いて、桜の花びらが舞った。
それから数ヶ月後。
遥は小さな秋田犬の仔犬を連れてやってきた。
誠一の家の前で、仔犬は嬉しそうに尻尾を振った。
「この子、引き取ったんです。名前は…『あかり』にしました。よかったら、時々会いに来てほしいなって」
誠一は目を細めた。
仔犬がふと、かつてのこはるに似た仕草で鼻を鳴らした。
「…あかりか。いい名前だな」
人生の夕暮れに、ふたたび灯る小さな光。
誠一はそのぬくもりを、そっと胸に抱いた。