都会の騒がしさに疲れた遥は、仕事を辞めたその翌日に、電車を乗り継ぎ、山奥の小さな温泉宿へと向かった。
深呼吸をするたびに胸の奥がざらつくようで、何もかもが自分の手からこぼれ落ちていく感覚に囚われていた。
宿に着いたのは、午後の光が山の稜線を斜めに照らしはじめた頃だった。
木造二階建ての古びた建物。
玄関をくぐった瞬間、遥は足を止めた。
ヒノキの香りだった。
ふっと、胸の奥まで風が通ったような気がした。
「あぁ……懐かしい匂い」
その言葉が自然とこぼれた。
宿の女将が優しく微笑む。
「うちはね、全部ヒノキの造りなのよ。お風呂も、お部屋も」
遥はうなずきながら、まるで長い旅を終えたような気持ちで部屋へと向かった。
部屋にはヒノキの柱と障子、床の間に生けられた山野草。
風がそよぐたび、ヒノキの香りがふわりと広がる。
窓を開けると、眼下に川が流れ、その音がさざ波のように届いてきた。
夜、温泉に浸かった。
湯船もまたヒノキでできていて、湯気とともに香りが立ちのぼる。
「子どもの頃、祖父の家で、こんな香りに包まれてたな……」
祖父の家には、ヒノキ風呂があった。
小学生の夏休み、遥は毎年そこに泊まりに行き、朝も夜も風呂に入りたがった。
祖父は決まって、「ヒノキの香りは心をまあるくするんだ」と笑っていた。
いつしか遥は、そんな夏を忘れていた。
仕事、締め切り、同僚との衝突、そして自分を責める声。
何をしても、「これでいいのか」という問いがつきまとった。
気づけば、何にも香りを感じない日々を送っていた。
翌朝、まだ薄明るい時間に目を覚ますと、ふわりとヒノキの香りが鼻先をくすぐった。
布団から抜け出して、浴衣のまま縁側へ出る。
朝霧が山の合間に漂い、川のせせらぎが遠くでささやいていた。
そのとき、宿の裏庭に小さな木工所があるのを見つけた。
気になって行ってみると、職人風の初老の男性が木を削っていた。
木片の山から立ちのぼるのは、やはりヒノキの香りだった。
「興味ある?」
そう尋ねられ、遥はうなずいた。
「ちょっとだけ、やってみますか」
渡されたのは小さなヒノキの板とカンナ。
ぎこちなく刃を走らせると、細く削られた木がくるんと丸まり、手のひらに落ちた。
それを拾って鼻を近づけると、香りがぐっと広がった。
「これ、好きです。削ってると、なんか……呼吸が整う気がします」
「そうそう。木を削ると、自分も整うんだよ。
不思議だけど、ちゃんと理屈もある。
香りにはリラックス効果があるし、手を動かすと余計な考えが消えていく。
まぁ、理屈じゃなくても感じればいいさ」
遥は、その日から毎朝、少しだけ木工所に通った。
手を動かしているうちに、自分の中に溜まっていた何かが、少しずつほどけていくのを感じた。
言葉にできない悲しみも、怒りも、静かに流れていった。
五日目の朝、職人が言った。
「ヒノキの板、持って帰るといい。部屋に置いとくだけで香るから。きっと、思い出すよ、自分の呼吸のこと」
遥は木片を大事に包んで、スーツケースに入れた。
帰りの電車の中、窓の外に流れる山々を見ながら、遥はふと思った。
——自分が好きだったもの、ずっと遠くに置いてきた気がする。
けれどそれは、今もちゃんとここにある。
思い出すだけで、また戻ってこれる。
東京に戻った遥の部屋には、ヒノキの木片がひとつ、机の上に置かれている。
忙しさの中でふと疲れたとき、その香りに顔を近づける。
そして、目を閉じて、山の風と川の音を思い出す。
それだけで、ほんの少し、心がまあるくなるのだった。