鏡の前で、茜は長く伸ばした前髪を指でつまんだ。
目にかかるほどの前髪は、小学生の頃からのトレードマークだった。
顔を隠すように垂れるそれは、彼女の「鎧」だった。
人と目を合わせるのが苦手で、教室ではいつも隅の席を選んだ。
話しかけられると、答えるより先に頷いてしまう。
そんな自分を変えたいと思う日もあったが、思うだけで何もできなかった。
大学に入ってからもそれは変わらなかった。
SNSで見かけるような、キラキラした学生生活とは程遠い日々。
講義を受け、必要最低限の会話だけをして、静かに帰宅する。
それが茜の「普通」だった。
そんなある日、講義で隣の席になった佐伯という男子学生が、ふいに言った。
「茜さん、前髪、邪魔じゃない?」
その一言に、茜の心はざわついた。悪気がないのは分かっていた。
むしろ彼は、ただ本当に不思議そうに言っただけだった。
「う、うん……まあ、慣れてるから……」
曖昧に笑ってごまかす。
けれど、その夜、鏡の前で茜は何度もその言葉を思い返していた。
邪魔、か。
その週末、ふと足が向いたのは、駅前の美容室だった。
予約もしていなかったが、なぜか勢いがあった。
案内された椅子に座ると、担当の美容師がやさしく問いかけてきた。
「今日は、どうしますか?」
迷った。でも、言葉は自然に出ていた。
「前髪……短くしてください。目が見えるくらいに」
切られる髪の感触。
ハサミの音が耳元で響くたびに、不思議と胸の奥が軽くなっていくようだった。
「はい、どうぞ」
鏡の中には、見慣れない自分がいた。
額が見え、目がはっきりと覗く。
違和感とともに、不思議な開放感があった。
誰かになれたわけじゃない。
けれど、自分に戻れた気がした。
月曜日、大学に行くと、いくつかの視線が茜を捉えた。
心臓が早鐘を打つ。
でも、それを打ち消すように、茜はひとつ深呼吸した。
「茜さん、髪、切ったんだね。すごく似合ってるよ!」
佐伯が笑った。
あの日と同じ、まっすぐな目だった。
だが今度は、茜もまっすぐに目を返した。
「ありがとう」
その一言が、前よりもずっとはっきりと口から出ていた。
それから少しずつ、茜の世界は広がった。
グループワークで意見を言えるようになった。
カフェで店員と目を合わせて注文できるようになった。
些細なことの積み重ねが、自分を少しずつ強くしていくのを感じた。
前髪を切っただけ。たったそれだけのことだった。
けれど、茜にとっては、それが「はじめの一歩」だった。
そして今、茜は就職活動の面接会場にいる。
スーツのポケットに忍ばせた鏡には、凛とした自分の姿が映っている。
「次の方、どうぞ」
名前を呼ばれて、茜は立ち上がった。
前髪の向こうに広がる世界を、今度は自分の足で歩いていくために。