東京の片隅、古びた商店街にひっそりと佇む小さな店がある。
店の名は「発酵日和」。
看板は木製で、手書きの文字が温かみを感じさせる。
店主の名は水野沙耶(みずの さや)、三十七歳。
もともとは広告代理店で働いていたが、激務とストレスにより心身のバランスを崩した。
燃え尽きたように会社を辞めたのは、ちょうど三年前の春だった。
心の余裕を失い、毎日をただやり過ごしていた日々。
そんなある日、実家の母が送ってくれた自家製のぬか漬けを久しぶりに口にした。
昔ながらの味が舌の上で広がり、気づけば涙がこぼれていた。
ふと、「私もこういう“優しい何か”を作れる人になりたい」と思った。
それから沙耶は、発酵食品について本や動画で学び始めた。
ぬか漬け、味噌、甘酒、塩麹、納豆──。
調べれば調べるほど、その奥深さと、ゆっくり時間をかけて変化していく過程に魅了された。
特に惹かれたのは、発酵が「時間と共に育つ」という点だった。
かつての自分は結果ばかりを急ぎ、時間を味わうことができなかった。
「発酵と生き方って、似てるのかもしれない」と沙耶は感じるようになった。
実際にぬか床を育て、味噌を仕込み、甘酒を作る日々。
失敗も多かったが、そのたびに記録をつけ、改善を繰り返した。
近所の人におすそ分けしたところ、「おいしい!どこで買えるの?」と聞かれたのがきっかけで、販売も視野に入れるようになった。
開店資金は、会社員時代の貯金と、母からのささやかな援助。
古い八百屋の跡地を借り、DIYで店を整えた。
冷蔵ケースも最低限、小さな棚に自家製の味噌や塩麹、季節のぬか漬けを並べた。
週末には手作り甘酒と発酵ドリンクを提供するカウンターも用意した。
オープン初日、客足はまばらだった。
それでも、ふらりと入ってきた老夫婦が「懐かしい味」と微笑み、大学生の女の子が「こういうの、もっと知りたい」と目を輝かせた。
少しずつ、口コミで客が増えていった。
沙耶の店にはルールがある。
「一日に仕込める量だけ売る」「できる限り無添加・地産の素材を使う」「お客さんと話す時間を大切にする」。
非効率かもしれない。
でも、彼女にとってそれが“発酵的な生き方”だった。
ある日、常連のひとりがふと尋ねた。
「どうしてこの店を開いたんですか?」
沙耶は、少し考えてから答えた。
「昔の私は、すごく焦っていて、何でもすぐ結果を出さないといけないと思ってました。でも、発酵って、時間がかかる。失敗もある。でも、そのゆっくりさが、いいんです。何もかも、ちょっとずつ変わっていく。そのプロセスが、今は好きなんです。」
その言葉に、客は静かにうなずいた。
「発酵日和」は今日も、少しずつ“育って”いる。
通りの花が咲き始め、春の香りが漂う頃、沙耶は店の片隅に新しい味噌樽を置いた。
その味噌が完成するのは、来年の今頃。
「きっと、またおいしくなってくれるはず」
そうつぶやきながら、沙耶は穏やかな笑みを浮かべた。