フリージアの咲くころ

面白い

毎年、春になると駅前の花屋にフリージアが並ぶ。
黄色や白、時には淡い紫のその花たちは、どれも陽だまりのような甘い香りをまとっていた。

佐々木紘はその花を見るたびに、ある一人の女性のことを思い出す。

――奈々。

大学時代、サークルで出会った彼女は、どこか風変わりで、そしてやさしい人だった。
桜が舞うキャンパスで、彼女はいつも言っていた。

「私ね、フリージアの香りが好きなの。子どもの頃、母が春になると庭に植えてくれたんだって。あんまり覚えてないんだけど、香りだけは忘れられなくて」

花の話をする彼女の目は、いつもきらきらと輝いていた。
紘はその横顔を、ただ静かに見つめていた。

二人は友達以上恋人未満のような関係で、何度も一緒に映画を観に行き、カフェで長話をし、夜の公園を歩いた。
でも決して、「付き合おう」という言葉は交わされなかった。

大学四年の春、奈々は突然、東京を離れることを決めた。
就職先が決まったというのが理由だったが、どこか彼女の瞳は遠くを見ていた。

「やりたいことがあるの。ずっと言えなかったけど……お母さんの跡を継いで、花屋をやりたいって、やっぱり思ってる」

そのときも彼女は、駅前の花屋のフリージアを指差して微笑んだ。

「それに、あの香りの中で生きていたいんだ。忘れたくないの。あの春を」

紘は何も言えなかった。
ただ、「そうか」とだけ答えた。

それ以来、彼女とは会っていない。
連絡も取らなくなって、もう十年が経った。

そして今年も、春が来た。

紘は変わらず、あの駅前の花屋の前を通る。
仕事の帰り道、ふと足を止めて、フリージアを見つめる。

「よかったら、香りだけでもどうぞ」

若い店員が声をかけてきた。
紘は軽く会釈して、そっと一輪の黄色い花に顔を近づける。
柔らかく、少しだけ甘く、懐かしい香りが鼻をくすぐった。

ふと、ポケットの中のスマホが震えた。

画面には、見覚えのある名前。

奈々

思わず手が震えた。
十年ぶりの着信だった。

「……久しぶり」

電話越しの声は、あの頃よりも少し落ち着いていた。
でも、変わらない温もりがあった。

「駅前の花屋、まだあるんだね。こっちに戻ってきたの。今、ちょうど近くにいるんだけど、会えるかな?」

風が吹いた。
フリージアがふわりと揺れ、香りが頬を撫でた。

紘は、迷いなく答えた。

「もちろん」

そして彼は、花屋の前で彼女を待った。

数分後、改札から出てきた女性は、変わらない笑顔でこちらに歩いてきた。
手には、小さな花束――黄色いフリージアがひときわ明るく咲いていた。

「これ、あなたに」

そう言って渡された花束の中に、一枚のカードが忍ばせてあった。

「また、ここから始めませんか?」

春の空は高く、風はあたたかかった。