木造の小さな家の一階部分を改装したドッグカフェ「いぬもあるけば」は、町外れの静かな通りにあった。
店主の佐々木千景(ささき ちかげ)は三十代半ば。
落ち着いた雰囲気をまとい、犬たちにはいつも穏やかな声で話しかけていた。
カフェには看板犬の柴犬「もなか」がいる。
もなかは千景が五年前、ある雨の日に保護した犬だった。
びしょ濡れで震えていた彼女をタオルで包んだその瞬間から、千景の人生は少しずつ変わっていった。
元々は都内の広告代理店で働いていた千景。
長時間労働に追われ、夢中で走り続けていたが、ある日、ふと「私、何のために生きてるんだろう」と立ち止まった。
その時、ふらりと訪れた公園で出会ったのが、もなかだった。
それから半年後、会社を辞めて、両親の遺した家を改装し、ドッグカフェを始めた。
友人には驚かれたし、家族も心配したが、それでも千景は一度も後悔していない。
「いぬもあるけば」は、犬と一緒にくつろげる空間で、メニューは手作りのクッキーとこだわりのコーヒー、そして犬用の米粉ケーキ。
週末にはしつけ教室や保護犬の譲渡会も開かれる。
常連の老夫婦が連れてくるダックスフント、近所の中学生が可愛がっているチワワ、みんながこの場所で繋がっていた。
ある日、雨がしとしとと降る中、初めての来客があった。
ずぶ濡れになった青年と、彼が抱えた中型犬。
犬はびっこをひいていた。
「すみません、どこか、犬を診てもらえる病院……」
千景はすぐにタオルと傘を手に取り、青年と犬を車に乗せて動物病院へ向かった。
その犬は迷い犬だった。
青年・涼太(りょうた)は近所で偶然見つけ、放っておけなかったという。
千景はその姿に、かつての自分ともなかの出会いを重ねていた。
しばらくして、涼太は週に一度、犬を連れてカフェを訪れるようになった。
犬は「ハル」と名付けられ、やがて彼の家族になった。
「この店、居心地がいいんですよ。なんていうか……静かだけど、温かい」
そう言って微笑む涼太の隣で、ハルが穏やかに尻尾を振っていた。
千景はふと思う。
あの日、もしも雨の中、もなかを拾っていなければ、今の私はいなかった。
涼太もきっと、ハルと出会わなければ、このカフェに来ることもなかっただろう。
人も、犬も、雨の日に迷い込んだ場所で、時々、新しい人生に出会う。
それから一年が経ち、「いぬもあるけば」はさらに常連客が増え、譲渡会で家族が見つかる犬も多くなった。
千景は忙しいながらも、日々を大切に生きている。
ある春の日、カフェの裏庭で咲いた小さな桜を眺めながら、千景はもなかに話しかけた。
「今日もいい日だったね。明日も、きっと大丈夫」
もなかは静かに寄り添い、まるで「うん」と答えるようにまばたきをした。
この小さなカフェには、大きな物語が詰まっている。
犬と人とが出会い、別れ、そしてまた新しい一歩を踏み出していく場所——そんな「いぬもあるけば」は、今日も優しい光の中にあった。