町の外れに「キッチン・バルバラ」という小さなレストランがある。
洒落た名前に反して、出てくる料理はどれも気取らず、しかし驚くほど美味しいと評判だ。
この店に、ほぼ毎日通ってくる常連客がいた。
名前は有馬 透(ありま とおる)、三十五歳、独身、会社員。
見た目はごく普通のサラリーマンだが、彼にはひとつだけ、ちょっとした“異常”とも言えるほどの嗜好がある。
ラム肉が好きで好きでたまらないのだ。
牛肉も豚肉も鶏肉も食べられなくはないが、彼にとって肉とは“ラム”でなければ意味がなかった。
ジンギスカン、ラムチョップ、ラムカレー、ラムバーガー……。
彼のスマホには、ラム料理の写真が無数に保存されている。
SNSのアカウントも「@lamb_life」。
フォロワー数は少ないが、彼にとってはそれすらどうでもよかった。
大事なのは、ラム肉との日々だ。
透が「キッチン・バルバラ」に通うようになったのは、一年前の春だった。
その日、たまたま会社の帰りに迷い込んだ路地裏で、芳ばしい香りに誘われた。
香辛料と肉の焼ける匂いがふわりと鼻をくすぐる。
「……これは、ラムだな」と鼻孔が告げた。
引き寄せられるように扉を開けると、そこにいたのが店主のバルバラだった。
「ようこそ。ラム、お好き?」
透は即答した。「愛しています」
以来、彼は週に五日、仕事帰りにこの店へ通うようになった。
いや、むしろ“通わずにはいられなかった”。
バルバラのラム料理は、ただ美味しいだけではない。
彼女は元・旅人であり、世界中の料理を学んでいた。
ある日はモロッコ風ラムのタジン鍋、またある日はギリシャ風のラムのスブラキ、はたまたネパール風のスパイシーラムスープまで。
「今日のおすすめはね、アイスランドのラムステーキ。海塩とローズマリーで仕上げたの」
「……最高です」
透は毎回、幸福のため息をつく。
バルバラはそんな透をからかうように笑うが、内心では少し嬉しそうだった。
ある雨の夜、店は珍しく空いていた。
透はカウンターでワインを飲みながら、じっとバルバラの手元を見ていた。
彼女がラムを切るナイフさばきは、まるで舞のように美しい。
「バルバラさんは、どうしてラムばかりなんですか?」
不意に聞いてみた。
彼女は一瞬手を止めたが、すぐに微笑んだ。
「昔ね、モンゴルの草原で出会った家族が、初めて私にラムのスープをご馳走してくれたの。それが、人生で初めて“心が温まる”って思えた料理だったの。だから、私にとっての原点なのよ」
透はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「なんだか、それ、わかる気がします。僕にとっても、ラムは“心の帰る場所”なんです」
バルバラは、ふっと笑った。
それからしばらくして、透は思い切って一つの決断をした。
会社を辞めたのだ。
「僕、自分でもラム料理の店を出します」
バルバラは一瞬驚いたが、すぐににっこりと笑った。
「それなら、ラムの骨のスープの取り方、教えてあげなきゃね」
透は今、小さなキッチン付きのフードトラックを買って、町の公園近くで営業している。
屋号は「ラムのひだまり」。
看板メニューは、バルバラから伝授された「スパイスラムシチュー」。
日替わりで各国のラム料理も出す。
お客さんはまだまばらだけど、「あの味、また食べに来たよ」という声が増えてきた。
そしてときどき、ひとりの女性がふらっと現れては、ラムの香りをかぎながら言う。
「このシチュー、ちょっと私に似てるわね」
透は笑って答える。
「師匠の味には、まだ遠いですけどね」
けれど彼の目は、静かに、確かな自信をたたえていた。