小さな町のはずれに、「クラール食堂」という古びた洋食屋がある。
外観は年季が入り、赤茶けた看板にはうっすらと「創業 昭和四十三年」の文字。
週末には観光客もちらほら訪れるが、常連の多くは地元の顔なじみだ。
この食堂の名物は、なんといってもビーフシチューである。
ごろりと大ぶりの牛肉に、赤ワインとトマトの風味が絡み合う濃厚なソース。
スプーンを入れると、肉はほろりと崩れ、じゃがいもも玉ねぎも、その形を残しながらもとろとろと溶けるような柔らかさ。
仕上げに散らされた刻みパセリが、香りを引き立てる。
その味をつくり続ける男、店主・高梨篤志は、かつて一流ホテルのシェフだった。
五つ星ホテルの厨房で、フレンチの真髄を極めた男が、なぜ田舎町の片隅で食堂を営むに至ったのか——それは誰も知らない。
だが、町の人々は彼を「ビーフシチューの人」と呼び、敬意と親しみを込めて店に通った。
ある日、東京から来た若い食レポーターがクラール食堂を訪れた。
雑誌の特集で「全国の隠れた名店」を探していたのだ。
「正直、こんなところに名店があるとは思いませんでした。びっくりです」
高梨はその言葉に眉一つ動かさず、ただ黙々と鍋をかき混ぜた。
記者はさらに言った。
「レシピって、どこかで学ばれたんですか? それとも、オリジナルですか?」
その質問に、彼はふと手を止めた。
「レシピに“完成”なんてないんですよ。毎日が調整。牛肉の脂の具合、玉ねぎの甘さ、ワインの酸味……全部変わる。だから、毎日が初日なんです」
記者は少し驚いた顔をした。
その目の奥には、「この人、ちょっと面倒くさいな」という気配もあった。
しかし、ビーフシチューを一口食べた瞬間、その表情が変わった。
静かに目を閉じ、スプーンを口から離さぬまま、ぽつりと呟いた。
「……これ、忘れられない味ですね」
高梨は、にやりともせず、「ありがとうございます」とだけ返した。
その夜、記者は店に長く居残り、厨房を眺めていた。
高梨が最後の鍋を洗い終える頃、ぽつんと聞いた。
「なぜ、東京を離れてまで、ここでビーフシチューを?」
しばらく沈黙があった。
そして、高梨はひとつの椅子に腰掛け、語り始めた。
「若い頃は、名を上げたくてね。ビーフシチューも、その頃は“売り”の一つに過ぎなかった。でも、ある日、一人の女性が店に来て、こう言ったんです。『この味、父の作るシチューにそっくり。泣きそうになった』って」
その時、彼は思ったという。
「料理って、記憶に届くんだ」と。
「それからは、派手さよりも、記憶に残る味を目指すようになった。レストランじゃ、それはなかなかできなかった。だから、自分の店を持ったんです。静かなところで、毎日鍋を覗き込んで、誰かの人生に寄り添う味を探すようになった」
記者はメモを取るのをやめ、ただ聞き入っていた。
「ビーフシチューひとつで、そこまで……?」
高梨は、ふと笑った。
「こだわるっていうのはね、ある意味、狂気ですよ。けれど、それを『愛』って呼んでくれる人もいる」
翌朝、記者は東京に戻った。
その後、雑誌に載った「クラール食堂」の記事は反響を呼び、店は一時、行列のできる人気店となった。
だが、高梨は変わらなかった。
いつもの鍋を、いつもの火加減で。
ビーフシチューは、今日も変わらず温かい。
そして、店に来た誰もが、少しだけ懐かしい気持ちでスプーンを口に運ぶのだった。