風のように甘く

食べ物

その街には、風のようにやさしい味のするシフォンケーキを焼く小さな店があった。

店の名前は「空色オーブン」。
古びた商店街のはずれにひっそりと佇むそのお店は、表から見れば普通のベーカリーのように見えたが、店内にはシフォンケーキしか置かれていなかった。
プレーン、紅茶、抹茶、チョコレート、そして季節限定の味。
どれもふわりと膨らんだ円形のケーキで、切り分けるとスポンジがしっとりと揺れた。

この店のケーキを初めて食べたとき、七海(ななみ)は涙が出そうになった。

その日は、勤めていた会社を辞めて帰ってくる途中だった。
上司との関係に疲れ、将来が見えなくなり、ただ逃げ出しただけの日。
うつむいて歩いていた七海は、ふと香ばしい甘い香りに誘われて店に立ち寄った。

「おひとつ、いかがですか?」

カウンターの奥から出てきたのは、白髪の女性だった。
小柄で、背筋がぴんと伸びている。
彼女の笑顔には、何かを包み込むような温かさがあった。

「……おすすめはありますか?」

「そうね、今日ならプレーンがおすすめかしら。焼きたてだから。」

そうして手渡された一切れのケーキは、ふわふわで、指でつかむと壊れてしまいそうだった。
ひとくち食べた瞬間、涙があふれた。
甘すぎず、けれど確かに甘くて、ふんわりとした温かさが口の中に広がる。
それは七海が子どものころ、母と一緒に台所で焼いたケーキの味と、どこか似ていた。

「……なんだか、懐かしいです。」

ぽつりとこぼした言葉に、女性はにこりと笑った。

「このケーキにはね、風が入っているの。優しい風が。」

それから七海は、何度もその店を訪れた。
何かがうまくいかなかった日、思い出したように足が向いた。
店の奥に座らせてもらい、コーヒーとシフォンケーキを味わいながら、女性とぽつぽつと会話を交わすようになった。

「どうして、シフォンケーキだけなんですか?」

ある日、七海が尋ねると、女性は少し照れたように笑った。

「昔ね、大事な人が言ったの。
このケーキは、風みたいで好きだって。」

その人はもういないらしい。
それ以上は語られなかったが、七海には十分だった。
あのやさしい味の裏に、深い思い出があるのだろうと感じた。

ある春の日、七海はふと思い立ち、ケーキを焼いてみることにした。
母から譲り受けた古いレシピ帳を引っ張り出し、何度も失敗を重ねながら、少しずつ、自分なりの味を探った。

「あなた、腕を上げたわね。」

初めて自作のケーキを「空色オーブン」に持ち込んだ日、女性は感心したように目を細めた。

それから数か月後、女性がぽつりと告げた。

「私、そろそろ引退しようと思うの。」

「えっ……!」

「この店を続けてくれる人を探していたの。でもね、もう見つかってる気がする。」

七海は呆然とした。
自分が? でも、心のどこかで、それを願っていた自分もいた。

引き継ぎの日。看板の色を少しだけ塗り直した。
「空色オーブン」の文字の下に、小さく自分の名前を添えた。

今も、あのやさしいシフォンケーキを焼いている。
風のように軽くて、けれど心にしっかりと残る味。
ケーキを買いにくる人たちの笑顔を見るたび、七海は思う。

あの日、あの香りに導かれてよかった。
人生のどこかで迷子になっても、甘くてあたたかい風が、きっとどこかに吹いているのだと。