きなこが好きだ、と彼女は言った。
大学のキャンパスで初めて話したとき、彼女は手に持ったきなこ餅をひとくち食べながら、笑った。
「こういう素朴な味って、なんか落ち着くんだよね。おばあちゃんを思い出すの」
その笑顔が、あまりにも自然で、僕は一瞬で心を奪われた。
それから、僕は密かにきなこを研究するようになった。
スーパーのお菓子売り場できなこを使った新商品を探したり、自分できなこクッキーを焼いてみたり。
いつか彼女に「これ、おいしいよ」と渡せるように。
季節は春から夏へと変わり、僕たちは少しずつ距離を縮めていった。
昼休みに同じベンチでごはんを食べたり、図書館で偶然を装って隣に座ったり。
彼女の好きなもの、嫌いなもの、夢や悩みも、少しずつ僕の中に蓄積されていった。
でも、彼女には好きな人がいた。
それを知ったのは、夏休み前のある日、彼女がふと漏らした一言からだった。
「……でも、その人、全然こっちを見てくれないんだ」
僕は、なんて言えばよかったのだろう。
励ますべきだったのか、それとも、僕の気持ちをぶつけるべきだったのか。
けれど、僕はただ、静かにうなずいた。
それからは少しずつ、彼女との距離が開いていった。
彼女が好きだったきなこ餅を見ても、心がざわつくだけだった。
秋が来て、冬が来て、僕たちは別々の道を歩き始めた。
大学を卒業してから数年が経ったある日、地元の小さなカフェで偶然、彼女と再会した。
彼女はすこし大人っぽくなっていて、それでも変わらぬ優しい目をしていた。
「久しぶり。元気だった?」
「うん。そっちは?」
「まあまあかな。でも、きなこは今でも好きだよ」
そう言って、彼女はカフェのメニューを開き、「きなこラテ」を注文した。
なんてことない会話。
でも、僕の心は静かに波打っていた。
「そういえば、昔……」と彼女が笑いながら言う。
「毎日きなこの話してたよね、私。うるさかったかな?」
「いや、嬉しかったよ。僕、きなこクッキーまで焼いたんだ。あげそびれたけど」
「え、マジで? 食べてみたかったなあ」
その一言で、あの日の後悔が少しだけ報われた気がした。
別れ際、彼女は僕に小さな包みを手渡した。
「これ、今日たまたま買ってて。なんか、あの頃を思い出しちゃった」
中には、きなこ餅が入っていた。
「ありがと。また会おうね」
「うん、また」
帰り道、包みを開けてひとくち食べる。
きなこの香ばしさと、少し甘くて、少しほろ苦い味が口に広がった。
きなこの味は、あの頃の思い出の味。
甘いだけじゃない、でも、嫌いにはなれない味だ。
僕はその夜、久しぶりにきなこクッキーを焼いた。