彼女の名前は朝比奈玲奈。
二十五歳の会社員で、都内の化粧品メーカーに勤めている。
玲奈には、誰にも譲れないこだわりがあった。
それは――唇のケア。
彼女のポーチには、いつも五種類以上のリップクリームが入っている。
保湿力重視のもの、ほんのり色づくもの、寝る前用のスペシャルケアバーム、UVカット効果のあるもの……どれも厳選されたアイテムばかりだ。
玲奈の一日は、唇のチェックから始まる。
朝起きて、鏡の前で唇の乾燥具合を確かめ、すぐに保湿ケア。
朝食後にはまたリップクリームを塗り直し、出勤時も忘れずに鞄に予備を入れる。
昼休みには同僚の目を気にしながらも、しっかりとリップクリームを塗り直し、夜寝る前には、分厚くリップバームを塗り込む。
「玲奈って、本当に唇のケアが好きだよね」
同期の美咲に言われ、玲奈は小さく微笑む。
「うん。唇が乾燥すると、気になって仕事に集中できなくなるんだよね」
「そこまで? でも確かに、玲奈の唇っていつもぷるぷるしてて綺麗だもんね」
美咲は感心したように言ったが、玲奈のこだわりは単なる美容のためだけではなかった。
高校時代、玲奈はひどく唇が荒れていた。
冬になると皮が剥け、血が滲むほどだった。
それが嫌で、ずっと下を向いていたせいか、クラスでは「地味な子」として扱われ、好きな人に話しかける勇気も持てなかった。
そんな玲奈を変えたのは、ある冬の日のことだった。
駅の売店で、たまたま手に取った高級リップクリーム。
その値段に驚きつつも、試しに塗ってみると、瞬く間に唇が潤った。
それまでどれだけケアしても治らなかった荒れが、日に日に改善されていくのを感じ、玲奈の気持ちも次第に前向きになっていった。
いつしか唇のケアが玲奈の日常になり、自信もついた。
大学では友達も増え、化粧品業界に興味を持ち、今の会社に就職するきっかけにもなった。
そして今、玲奈は新しい目標を持っていた。
それは、自分と同じように唇の悩みを持つ人に向けた、究極のリップケア商品を開発すること。
ある日、上司から新しいプロジェクトの話が舞い込んだ。
「リップケアに特化した新商品を企画することになった。朝比奈、やってみるか?」
その瞬間、玲奈の心は高鳴った。
「はい! ぜひやらせてください!」
ついに、自分のこだわりを最大限に生かせる機会が訪れたのだ。
試作を繰り返し、何度も改良を重ね、ついに玲奈の理想を形にしたリップバームが完成した。
商品発表の日、玲奈は自分の唇にそのリップバームを塗り、堂々とプレゼンテーションを行った。
「これは、私の人生を変えたリップケアのすべてを詰め込んだ商品です。これを使って、皆さんの唇がより美しく、そして自信を持てるようになればと思っています」
会場は拍手に包まれた。
玲奈は、そっと自分の唇に触れた。
柔らかく、潤ったその感触が、彼女の努力と情熱の証だった。