京都の小さな路地裏に、「天晴(てんせい)」という海老天専門の天ぷら屋があった。
たった四席しかない小さな店だったが、その味は評判で、開店前から客が並ぶほどだった。
店主の高宮圭一は、七十歳を超える職人。
五十年以上天ぷらを揚げ続け、余計なものを削ぎ落としたシンプルな技術で、極上の海老天を作り上げていた。
衣は薄く軽やかで、サクッと音を立てると同時に、海老の甘みが口いっぱいに広がる。
ある日、店の暖簾をくぐってきたのは、若い女性だった。
「ここ、求人募集してますか?」
壁に貼られた「見習い募集」の張り紙を指さしながら、彼女はまっすぐに圭一を見た。
若者が修行に来ることは珍しくなかったが、ほとんどがすぐに辞めていった。
天ぷら職人の世界は厳しく、何年も下積みが続く。覚悟のない者には続かないのだ。
「名前は?」
「森下楓です。料理の勉強をしたくて、どうしてもここで修行したいんです」
彼女の手は細く、料理人らしくなかった。
しかし、強く握りしめた拳からは、簡単には諦めない意志が感じられた。
「やれるもんなら、やってみな」
こうして楓の修行が始まった。
朝五時、誰よりも早く店に入り、まずは掃除から。
床を磨き、調理器具を拭き、食材の準備をする。
次に、大量の海老の下処理。
殻を剥き、背ワタを取る。
この単純な作業を、一日何百尾も繰り返す。
指は腫れ、夜になると動かすのも辛い。
それでも、楓は辞めなかった。
「なぜ、こんなに下ごしらえを丁寧にするんですか?」
楓が尋ねると、圭一は無言で一尾の海老を見せた。
指先でそっと押すと、弾力のある身がわずかに揺れる。
「天ぷらは、素材がすべてや。海老の処理ひとつで、仕上がりが変わるんや」
それから楓は、もっと丁寧に海老を扱うようになった。
二か月後、ついに衣を作る仕事を任された。
小麦粉と冷水を混ぜ、箸でそっとかき回す。
力を入れすぎると粘りが出て重くなる。
慎重に混ぜ、圭一に見せた。
「よし、揚げてみろ」
衣をまとわせた海老を油へ落とす。
ジュワッという音とともに、小さな泡が立つ。
しかし、揚がった海老天はぼってりと重く、理想の軽さではなかった。
「まだまだやな」
楓は悔しさを噛み締めたが、諦めなかった。
半年が経ち、楓の揚げた天ぷらは形になり始めていた。
しかし、圭一が揚げる海老天とは決定的に違った。
見た目はほぼ同じなのに、口に入れると軽さが違う。
何が足りないのか、楓は分からなかった。
ある日、勇気を出して聞いた。
「師匠、どうして師匠の天ぷらは、あんなに軽やかなんですか?」
圭一は一瞬黙り、そしてふっと笑った。
「秘密を教えたる。揚げる時に、衣をつけすぎたらあかん。そして、油に入れる時、一度空中で一瞬止めるんや」
「空中で……?」
「揚げる前の、ほんの一瞬や。そしたら、衣が均等について、空気が入るんや」
楓は何度も試した。そして、ついに理想の海老天を揚げることができた。
常連客が楓の揚げた天ぷらを口にし、驚いたように言った。
「……おやじさんのと、変わらんくらい旨いぞ」
圭一は微笑んだ。
「楓、お前はもう一人前や」
その言葉を聞いた楓は、涙ぐんだ。
数年後、圭一が引退し、「天晴」は楓の店になった。
彼女は師匠の味を守りながらも、新しい挑戦を始める。
ある日、店の前に「見習い募集」の張り紙が貼られた。
かつての自分と同じように、夢を追い求める若者が、そこに立つ日を待ちながら——。