陽が傾き始めた午後四時、鈴木葵(すずき あおい)は、いつものように商店街の一角にある小さな洋菓子店「ラ・シュクル」の前で足を止めた。
葵は小さな頃から甘いものが大好きで、特にこの店のケーキは特別だった。
カラフルなマカロン、しっとりとしたガトーショコラ、繊細なモンブラン——そのすべてが葵を魅了してやまなかった。
「今日の限定は……シトラスのタルト?」
ガラスケース越しに目を輝かせる葵の姿を、店主の片岡(かたおか)は微笑ましそうに見ていた。
彼女はこの店の常連であり、週に三回はここへ足を運んでいる。
「いらっしゃい、葵ちゃん。今日の新作はシトラスのタルトだよ。オレンジとグレープフルーツを使った爽やかな一品さ。」
「わぁ……じゃあ、それください!」
ケーキを受け取ると、葵はすぐ近くの公園へと向かった。
春のやわらかな風が心地よく、ベンチに腰掛けてゆっくりと箱を開ける。
キラキラと輝くオレンジとグレープフルーツが絶妙に配置されたタルトは、見るだけで幸せな気持ちになる。
「いただきます。」
ひとくち食べた瞬間、柑橘のさわやかな香りとほどよい甘さが口いっぱいに広がった。
サクサクのタルト生地、滑らかなクリーム、そしてフレッシュなフルーツ。
葵は目を閉じ、幸せをかみしめる。
「本当に幸せ……。」
その日以来、葵はただ食べるだけではなく、ケーキを自分で作ってみたいと思うようになった。
甘いものへの情熱が、彼女を新たな世界へと導いたのだ。
週末、葵はキッチンで初めてのマドレーヌ作りに挑戦していた。
バターの香りが部屋中に広がり、オーブンからはふっくらと焼きあがったマドレーヌが姿を現す。
けれど、焼き色がいまひとつだった。
「うーん、もう少し焼き時間を増やせばよかったかな……。」
失敗はしたものの、葵は諦めなかった。
何度もレシピを研究し、試行錯誤を繰り返す。
そのうち、少しずつではあるが、納得のいく焼き菓子を作れるようになった。
次はホールケーキ、タルト、シュークリーム——彼女の挑戦は尽きることがなかった。
数年後、葵はパティシエになることを決意した。
専門学校に通いながら、夜は「ラ・シュクル」でアルバイトを続けた。
店主の片岡は、彼女のひたむきな姿を見てこう声をかけた。
「葵ちゃん、いつか自分の店を持ちなさい。きっと素敵なパティシエになれるよ。」
その言葉が葵の心に火をつけた。
そして、数年後——彼女は念願の自分の洋菓子店「アオイ・パティスリー」をオープンさせた。
店のガラスケースには、彼女が研究し尽くした絶品スイーツが並ぶ。
初めて作ったシトラスのタルトも、今では看板メニューのひとつだ。
「いらっしゃいませ。」
葵は満面の笑みで、訪れるお客さんを迎えた。
彼女の甘美なる追求は、これからも続いていくのだ。