陽が落ちる頃、古びた喫茶店「紫陽(しよう)」の扉がそっと開いた。
カラン、と鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥でグラスを磨いていた店主が顔を上げると、そこには見覚えのある青年が立っていた。
「こんばんは、おじさん。今日も、あれを一杯」
青年は少し気恥ずかしそうに微笑んで、席に着いた。
店主は何も言わず、慣れた手つきで棚から一本のボトルを取り出した。
それは、深い紫色をした濃厚なぶどうジュース。
「まったく、もう大人なんだから珈琲の一杯くらい飲めるようになったらどうだ」
「これがいいんだよ、おじさんのぶどうジュースが一番だから」
青年はふっと笑いながらグラスを受け取る。
そしてゆっくりと、琥珀色の照明に映える紫の液体を口に含んだ。
***
この喫茶店に初めて来たのは、十年以上前のことだった。
小学生だった彼、直人(なおと)は、母親に連れられてこの店にやってきた。
母親は仕事で忙しく、祖母が倒れたばかりで家には重苦しい空気が漂っていた。
そんな時、母はふと昔馴染みだったこの店に立ち寄ったのだった。
「いらっしゃい、久しぶりだな」
「お久しぶりです、マスター。直人をちょっと休ませたくて」
「おう、あいつの子か。……坊主、何か飲むか?」
母親に促されるまま、直人は恥ずかしそうに頷いた。
「……ジュース」
「ぶどうジュースがあるぞ」
目の前に差し出されたグラスには、深い紫色の液体。
興味津々で口にしてみると、口いっぱいにぶどうの甘さと少しの酸味が広がった。
それは今まで飲んだどんなジュースよりも美味しく感じられた。
「うまい!」
無邪気に感想を漏らすと、店主はくすりと笑った。
「だろう? これは特別なんだ。お前みたいな坊主にこそ飲んでほしいな」
その日から、直人はこの店に通うようになった。
母親が忙しい時や、ひとりでぼんやりしたい時。
どんな時でも店主は黙ってぶどうジュースを出してくれた。
***
それから時が流れ、高校生になった頃、直人は一度この街を離れた。
父の転勤に伴い、遠い町へと引っ越したのだ。
喫茶店に最後に顔を出した日、店主はいつものようにぶどうジュースを出してくれた。
「お前がいなくなるのは寂しいが……まあ、いい旅になるといいな」
「……ありがとう。いつか、また戻ってきたら、ぶどうジュースを飲みに来てもいい?」
「もちろんだ。その代わり、一人前の男になってこいよ」
そう言って、店主はにやりと笑った。
***
数年ぶりに戻ってきたこの町は、あまり変わっていなかった。
でも、変わってしまったものもあった。
母は再婚し、新しい家庭を築いていた。
友人たちはそれぞれの道を歩み、街並みの一部も少しずつ変化していた。
しかし、「紫陽」だけは昔のままだった。
「あの約束を果たしに来たよ」
直人はグラスを傾けながら、ゆっくりと店主に言った。
「ほう、一人前の男になったか?」
「どうだろうね。でも、おじさんのぶどうジュースを飲んだら、子どもの頃の気持ちが戻ってきた気がするよ」
「それなら十分だ。お前は、またこの街に帰ってきたんだからな」
店内にはジャズの音色が静かに流れ、心地よい沈黙が訪れる。
直人はゆっくりとジュースを飲み干し、目を閉じた。
幼い頃の自分が、この味を知っていたことが誇らしく思えた。
そして、彼はまた、この店に戻ってくることを決めたのだった。