月影に囚われし者

不思議

満月が夜空に浮かぶとき、この町では決して森へ足を踏み入れてはならない――それが古くからの言い伝えだった。

しかし、エリオは幼い頃からこの言葉に疑問を抱いていた。
理由も知らされず、ただ「禁じられている」とだけ教えられることが、彼の探究心を刺激したのだ。

そして今宵、彼はついにその禁を破る決意をした。
満月の輝きに導かれるように、森の奥へと足を踏み入れたのだった。

森の中は驚くほど静かで、風もなく、ただ月の光だけが木々の間を縫うように降り注いでいた。
普段なら梟や虫の声が響くはずなのに、今夜は何も聞こえない。
まるで森全体が息を潜め、何かを待っているようだった。

しばらく進むと、エリオの目の前に信じがたい光景が広がった。

――湖だ。

地図にも載っていないはずの場所に、鏡のように静まり返った湖が広がっていた。
湖面には満月が映り込み、波一つ立たずに揺れることなくそこにあった。
まるで、もう一つの月が湖の底に沈んでいるかのようだった。

「こんな場所があったなんて……」

彼が湖のほとりに近づこうとしたとき、不意に足元から冷たい風が吹き上がった。
そして、湖面が揺らめくと同時に、銀色の光が立ち昇る。

その中心に、白銀の髪を持つ少女が現れた。

「……やっと、来てくれたのね」

透き通るような青い瞳がエリオをまっすぐに見つめていた。

「君は……誰?」

彼女は寂しげに微笑み、そっと湖面に指を触れさせると、波紋が広がった。

「私はセレナ。この湖に囚われた者」

エリオは言葉を失った。
こんな場所に、人が囚われているとはどういうことなのか。

「この湖は”月影の牢獄”。満月の夜にだけ、私はこうして現れることができる。でも、それ以外の夜は、湖の底に閉じ込められてしまうの」

「そんな……どうして?」

「昔、この森には”月の神”がいたわ。私は神殿に仕える巫女だった。でもある日、禁じられた儀式を目撃してしまったの。その罰として、私は湖に囚われることになったの」

エリオは息をのんだ。伝承では、確かにこの森にはかつて月の神を祀る神殿があったと言われていた。
しかし、それが本当の話だったとは……。

「私を、ここから解放してほしいの」

エリオは迷った。
彼女の言葉を信じるべきか、それとも……。
だが、湖に映る彼女の悲しげな瞳が、何よりも真実を語っているように思えた。

「どうすれば……?」

「満月が完全に天頂に来る瞬間に、湖の中心に月の光を反射させる”銀の鏡”を投げ込んで。その鏡が月の光を跳ね返し、湖の呪いを打ち破るの」

「銀の鏡?」

彼女はそっと胸元から、小さな銀色の鏡を取り出した。
それは美しく輝いていたが、どこか悲しげな雰囲気をまとっていた。

「これは、かつて神殿に伝わっていた聖なる鏡……私の最後の希望」

エリオは鏡を受け取り、湖の中心を見つめた。
今、月は天頂へと昇りつつあった。
時間は、ほとんど残されていない。

彼は覚悟を決めた。

「いくよ!」

エリオは鏡を湖の中心へと投げ込んだ。
鏡は月光を受けて眩く光り、湖面を照らし出した。
その瞬間――

湖全体が銀色に輝き、眩い光が天へと昇っていった。
まるで、湖が月へと還っていくかのようだった。

次の瞬間、エリオの目の前には、涙を流すセレナが立っていた。

「ありがとう……私、自由になれたのね」

そう言うと、彼女の体は少しずつ透明になっていく。

「ちょっと待って! どこへ行くの?」

「私はもう、ここに縛られることはない。でも……私は人として生きることもできないの」

エリオは彼女の手を掴もうとしたが、指先はすり抜けた。

「さようなら……エリオ」

彼女の姿は、月の光とともに消えていった。

気づけば、湖は消え、ただの静かな森が広がっていた。
エリオの手の中には、温かみを残したままの銀の鏡だけが残されていた。

彼は知ったのだ。
この森の伝承が、ただの言い伝えではなかったことを。

そして、この満月の夜の出来事が、決して夢などではなかったことを。