冬の寒さが街を包むある日の夕方、香織(かおり)は小さな洋菓子店「カカオの小箱」の前に立っていた。
白い息を吐きながら、ショーウィンドウ越しに並ぶ色とりどりのチョコレートたちをじっと見つめる。
特に彼女の目を引いたのは、奥のガラスケースに丁寧に並べられた生チョコだった。
滑らかな光沢を放つその小さな四角いチョコレートたちは、まるで宝石のようだ。
「いらっしゃいませ。」
店内に入ると、甘く濃厚なカカオの香りが香織を包み込む。
店主の穏やかな声が彼女を迎えた。
香織は生チョコの前に立ち止まり、「これをください」と指差す。
「これ、手作りなんですか?」
店主は優しく微笑みながらうなずいた。
「はい、カカオ豆から選び抜いて、ひとつひとつ丁寧に作っています。口溶けのよさが自慢なんですよ。」
香織は一箱買い、家に帰ると、暖かい紅茶を用意して箱を開けた。
中にはきれいに並べられた生チョコがあり、一つ手に取って口に運ぶと、滑らかで濃厚な甘さが広がった。
ほのかに感じる苦味とともに、幸福感が体を包む。
香織が生チョコを特別に好きになったのは、ある思い出がきっかけだった。
香織が小学生の頃、母親は仕事が忙しく、あまり一緒に過ごす時間がなかった。
だが、バレンタインデーの日だけは例外だった。
その日、母親は仕事を早めに切り上げ、キッチンで香織と一緒に生チョコを作るのが恒例だった。
溶かしたチョコレートに生クリームを加え、よく混ぜて冷蔵庫で固める。
そして、小さな四角に切り分けた生チョコを、ココアパウダーの中でころころと転がして仕上げた。
「これ、すごく簡単なんだよ。でも、手間をかけるほど美味しくなるの。」
母親がそう言いながら笑う姿を、香織は今でも鮮明に覚えている。
しかし、香織が中学生になる頃には、その習慣も途絶えた。
母親が体調を崩し、入院生活が続いたのだ。
やがて母親は亡くなり、香織はそれ以降、生チョコを作ることもなくなった。
香織は一粒の生チョコをもう一度口に運び、目を閉じた。
その瞬間、幼い頃の記憶が鮮やかに蘇る。
あの頃の温かいキッチンの光景、母親の笑顔、そして二人で笑いながら仕上げた生チョコの甘さ。
「お母さん、今もどこかで見てるのかな。」
心の中でつぶやきながら、香織は静かに微笑んだ。
次の週末、香織は母親との思い出をたどるようにキッチンに立った。
手元には、小さなレシピノートがある。
母親が愛用していたものだ。
カカオを刻み、生クリームを温め、チョコレートを丁寧に溶かしていく。
母親が教えてくれた通りに、ゆっくりと時間をかけた。
「これでいいのかな。」
完成した生チョコを一つ口に入れると、涙が自然とあふれた。
それは、母親と過ごした時間そのものの味だった。
香織は出来上がった生チョコをいくつか箱に詰め、次の日「カカオの小箱」に持って行った。
「これ、母が昔教えてくれたレシピで作ったんです。よかったら、試してみてください。」
店主は驚きながらも受け取り、一粒口に運んだ。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「これは素晴らしいですね。お母さまとの思い出が詰まっているんですね。」
その日をきっかけに、香織は店で働くことになった。
お客様に母親の味を届けたいという想いからだ。
こうして香織の人生は、再び生チョコの甘い香りに包まれていく。
母親との思い出とともに、彼女の物語は新たな一歩を踏み出していた。