それは、古びたカフェの片隅で見つかった一冊の手帳から始まった。
革の表紙は使い込まれて柔らかくなり、角は少し擦り切れている。
手帳を見つけたのは、大学生の由紀だった。
彼女はいつも講義の後にこのカフェに立ち寄り、コーヒーを飲みながら宿題を片付けるのが日課だった。
その日も同じように席に着いたとき、足元に落ちていた手帳を見つけたのだ。
拾い上げてみると、中にはぎっしりと文字が詰まっていた。
日記のようでもあり、メモ帳のようでもある。
しかし、どのページもどこか中途半端な印象を受ける。
最後まできちんと書かれているものはなく、どこかで筆が止まっているのだ。
「誰かの落とし物かもしれない」
そう思って店員に手帳を渡そうとしたが、なぜか途中で手が止まった。
好奇心が勝り、最初のページをめくったのだ。
そこには、こう書かれていた。
「この手帳を拾った人へ。私は未来を見た。」
由紀の心臓が少し早くなった。
これはただの日記ではない。
何かもっと特別なもののように感じた。
次のページをめくると、断片的な出来事が書き記されていた。
「2023年10月12日、雨が降る。隣のビルで赤い傘の女性が転ぶ。」や「2024年1月25日、雪の夜、青い帽子の男がベンチに座っている」など、日常の一コマのような光景が並んでいる。
どれも何の変哲もない内容だったが、由紀はそれがただの空想や日記ではないことをすぐに悟った。
それは、まだ起こっていない出来事なのだ。
ページを読み進めていくうちに、不思議なことが起きた。
手帳の空白だったページが次第に文字で埋まっていくのだ。
由紀が目の前でそれを見ていると、まるで透明な手がインクを走らせているかのように、新たな内容が追加される。
そして、そのページにはこう記されていた。
「2024年3月15日、由紀という名前の少女が、手帳を通じて選択を迫られる。」
「私?」由紀は思わず声を上げた。その瞬間、カフェの静寂が彼女を包んだように感じた。
ページをさらにめくると、そこにはいくつかの選択肢が記されていた。
どれも未来の出来事に影響を与えるようなものだ。
「赤い傘の女性を助けるか無視するか」「青い帽子の男に声をかけるかそのまま通り過ぎるか」などだ。
「これは一体何なの?」
手帳には何も答えが書かれていなかった。
ただ、選択を迫られているという事実だけが彼女を圧倒していた。
その日から、由紀の生活は変わった。
手帳を片手に持ち歩き、記されている出来事が実際に起こるかを確かめるようになった。
驚くべきことに、それらは全て現実となった。
そして、由紀が選択肢の一つを選ぶたびに、手帳は新しい内容を描き加えていくのだった。
やがて彼女は気づいた。
この手帳は、ただ未来を記すだけではなく、それを操作する力があるのだと。
しかし、その力には代償が伴う。ある日、手帳にこう書かれていた。
「選択の結果が誰かの人生を変える。」
由紀は目の前に広がる未来の可能性に恐怖を感じた。
自分の選択が他人の運命を左右するという重み。
それでも、彼女は手帳を手放すことができなかった。
それは、ただの道具ではなく、彼女自身の人生を映し出す鏡のように感じられたからだ。
そして最後のページには、こう書かれていた。
「手帳を返すべき時が来た。選択を終えたら、また誰かのもとへ渡るだろう。」
由紀は手帳を閉じ、深く息をついた。
それが自分にとってどれほど重要な存在になったかを思い知ったからだ。
そして数日後、彼女は手帳をカフェのテーブルの上にそっと置いた。
数時間後、それを拾い上げたのは、別の見知らぬ誰かだった。
その人の顔に浮かんだ驚きの表情を見て、由紀は静かにカフェを後にした。
手帳の物語は、新たな持ち主の手でまた続いていくのだろう。
そして、どこかで、また一人の人生が静かに変わり始める。