冬の朝、白い湯気が漂う温泉街。
その街の一角にある小さな饅頭屋「湯の香堂」は、地元の人々や観光客に愛される名店だった。
ふんわりと蒸された温泉まんじゅうの香りが、店の前を通るたびに鼻をくすぐる。
美里(みさと)はその香りが大好きだった。
美里は温泉街の旅館「月見亭」で働く27歳の女性だった。
女将見習いとして日々忙しく過ごしていたが、彼女にはひとつの楽しみがあった。
それは、仕事が終わった夜に「湯の香堂」のまんじゅうを買って、部屋でゆっくりと味わうことだった。
温泉まんじゅうに初めて恋したのは、小学生の頃。
家族旅行で訪れた温泉街で、一口かじった瞬間に広がる黒糖とあんこの優しい甘さに心を奪われた。
それ以来、温泉まんじゅうは美里の「幸せの象徴」となった。
美里が「湯の香堂」で働く若い職人、蓮(れん)と出会ったのは、ある寒い冬の日だった。
いつものように仕事帰りに店を訪れると、慣れた笑顔で饅頭を包んでくれるのは年配の店主ではなく、真剣な眼差しで蒸籠(せいろ)を覗き込む若い男性だった。
「いらっしゃいませ!」
蓮の声は張りがあり、それでいてどこか穏やかだった。
「今日はおじさんじゃないんですね?」
思わずそう尋ねると、彼は照れくさそうに笑った。
「父が風邪をひいてしまって。今日は僕が代わりに店番してるんです」
蓮は店主の息子だった。
聞けば、東京で製菓の学校を卒業し、今は実家の饅頭屋を手伝いながら修行しているのだという。
美里は思わず、蒸籠の中で湯気に包まれる饅頭を見つめた。
彼女が愛するそのまんじゅうは、彼の手で作られているのだと思うと、少し胸が高鳴った。
それから美里は、「湯の香堂」に足を運ぶたびに蓮と会話をするようになった。
饅頭の作り方、温泉街の歴史、時にはお互いの好きな映画や音楽の話まで。
蓮は仕事に対して真面目で、饅頭に注ぐ情熱は並々ならぬものがあった。
彼の言葉からは、父から受け継いだ技術と、温泉まんじゅうに対する深い愛情が感じられた。
ある日、蓮がふいにこう言った。
「美里さんは、どうしてそんなに温泉まんじゅうが好きなんですか?」
美里は少し照れながら答えた。
「温泉まんじゅうって、温かくて優しい味がするでしょ?なんだか、食べると心がほっとするの。特にここ『湯の香堂』のまんじゅうは、私にとって一番の癒やしなんです」
その言葉を聞いた蓮は少し驚いた表情を浮かべた後、真剣な目で彼女を見つめた。
「そんな風に思ってもらえるなんて、すごく嬉しいです。もっと美里さんが喜んでくれる饅頭を作りたいな」
彼の言葉に、美里の胸はじんわりと温かくなった。
冬が過ぎ、春の足音が聞こえるころ、蓮が新作の饅頭を持って「月見亭」を訪れた。
美里は少し驚きながらも、彼を応接間に案内した。
蓮が箱を開けると、中には薄い桜色のまんじゅうが並んでいた。
「これ、新作の桜あんの饅頭です。美里さんに一番最初に食べてほしくて」
美里は饅頭をひとつ手に取り、そっと口に運んだ。
柔らかな皮に包まれた桜あんは、ほんのりとした塩味と甘さが絶妙で、口の中に春の香りが広がった。
「おいしい……!すごく優しい味ですね」
美里が感動して言うと、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
「美里さんが言っていた『優しい味』って、こんな感じかなって思って作ってみました」
その瞬間、美里は気づいた。
自分が温泉まんじゅうだけでなく、その饅頭を作る蓮に心を惹かれていることに。
それから数年後、「湯の香堂」と「月見亭」は、地元でも有名な共同イベントを開くようになった。
二人は仕事でもパートナーとなり、そして人生でも伴侶となった。
蓮の饅頭と美里の笑顔が織りなす温泉街の物語は、今も続いている。
どこかから甘い香りが漂うたびに、人々は二人の作るまんじゅうに幸せを求めて集まるのだ。