カモミールの香りが漂う小さな部屋に、紗奈(さな)は座っていた。
彼女は、いつも忙しい日々の中でふとした瞬間に静けさを求める。
仕事のストレス、友人や家族との付き合い、そして未来への不安。
それらは時折、心に重くのしかかる。
だが、紗奈には一つの秘密があった。
彼女は子供の頃からカモミールティーが好きで、その香りと味わいが、どんなに辛い時でも彼女を癒してくれるのだ。
カモミールティーを初めて口にしたのは、小学三年生の冬だった。
母親が体調を崩し、風邪で寝込んでいたとき、祖母が家を訪れ、彼女のためにカモミールティーを淹れてくれた。
母がベッドで安らぎを感じながらそのお茶を飲んでいる姿を見て、紗奈は「私も飲みたい」と言った。
祖母は優しく微笑んで、小さなカップにカモミールティーを注いでくれた。
その瞬間、温かさと花のような甘い香りが彼女を包み込んだ。
「これ、なんていうお茶?」と紗奈は祖母に尋ねた。
「カモミールよ。リラックスしたいときに飲むといいわ」と祖母は答えた。
それ以来、紗奈はカモミールの香りと味に恋をした。
何かに疲れたとき、心が乱れたとき、彼女はカモミールティーを淹れて、その香りとともに心を落ち着かせてきた。
時間が経ち、大学生活や社会人としての忙しさに追われる日々でも、その習慣は変わらなかった。
カモミールティーは、彼女にとって心の平穏を取り戻すための大切な儀式のようなものだった。
ある秋の日、紗奈はいつものように仕事の合間にカフェに立ち寄った。
その日は特に忙しく、朝から会議と資料作成で息つく暇もなかった。
カフェのカウンターで注文を待ちながら、彼女はぼんやりと外の景色を眺めていた。
風が冷たく、木々の葉が色づいていく様子が秋の深まりを感じさせた。
そんな時、ふと店内に広がるカモミールの香りが彼女の鼻をかすめた。
「カモミールティーですね。お待たせしました」とバリスタが優しく声をかけ、温かいカップを彼女の前に置いた。
その瞬間、紗奈の中で長年忘れていた記憶が蘇った。
祖母の家の居間、温かな毛布、そしてカモミールティーの香りに包まれた静かな午後。
あの時、祖母は彼女にこう言った。
「いつでも心が疲れたら、このお茶を思い出しなさい。きっと元気になるわよ。」
祖母は数年前に他界していたが、その言葉とカモミールの香りは今でも彼女を支え続けていた。
彼女はカップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
優しい甘さとほのかな苦味が広がり、体の緊張が一気にほぐれていく。
その夜、紗奈は自分の部屋に戻り、再びカモミールティーを淹れた。
今夜は特別な夜に感じた。外の風は冷たかったが、部屋の中はカモミールの香りで満たされていた。
カップを手に取り、ベッドの縁に座ると、紗奈は深く息を吸い込んだ。
彼女は窓の外を見つめ、月明かりが薄く部屋に差し込んでいるのを感じた。
これまでの人生で、多くの困難に直面してきたことを思い返す。
仕事のプレッシャー、人間関係のストレス、将来への漠然とした不安。
しかし、こうしてカモミールティーを飲みながら、静かに過ごす時間がある限り、彼女は前に進むことができる。
紗奈はカモミールティーに込められた思いを胸に、明日もまた頑張ろうと決意した。
この小さな儀式が、彼女の人生における重要な支えとなっていることを再確認する。
静かな夜の中、カモミールの香りに包まれながら、彼女はその瞬間に感じた安らぎとともに眠りについた。
そして、夢の中でもカモミールの香りが漂っていた。
それは、彼女にとっての「心の安らぎ」の象徴であり、いつも彼女を守り、導いてくれる存在だった。