アップルティーと彼女の午後

面白い

小さなカフェで、彼女はいつもと同じ席に座っていた。
木製の丸テーブルに置かれたカップから、甘いリンゴの香りがゆっくりと漂ってくる。
カップの中には薄い琥珀色のアップルティーが入っていて、その香りは秋の柔らかな風を思わせるものだった。

彼女の名前は沙織。30代の半ばを迎えた彼女は、仕事に追われながらもこのカフェでのひと時を何よりも大切にしていた。
日々の喧騒から離れ、一息つけるこの場所は、彼女にとって心のオアシスのような存在だった。
そして、ここでの定番はいつもアップルティーだった。

アップルティーとの出会いは偶然だった。
学生時代、友人に誘われて入った小さなティールームで、初めてその味を知った。
リンゴの優しい甘さと紅茶の渋みが絶妙に混ざり合うその味わいに、彼女はすぐに魅了された。
それからというもの、彼女の生活の中でアップルティーは欠かせない存在となった。

今日もまた、仕事帰りにそのカフェに立ち寄った。
彼女は窓際の席に座り、外の景色をぼんやりと眺める。
街路樹の葉が風に揺れ、赤や黄色に染まった木々が、まるでカラフルな絵画のように広がっている。
その風景を見ながら、彼女は過去の自分を思い返していた。

昔は、夢を追いかけていた。
学生時代は文学部に所属し、小説家になりたいという漠然とした夢を抱いていた。
ノートに何度も物語を書き綴り、いずれは自分の作品が世に出ることを期待していた。
しかし、現実はそう甘くなかった。
大学を卒業すると、彼女は出版業界に就職したが、自分の作品を世に送り出すことは叶わず、いつしか日常に追われ、夢を忘れかけていた。

「もう、あの頃には戻れないのかもしれない」
沙織は、そんな考えが頭をよぎるのを感じながら、そっとアップルティーを口に運んだ。
温かい液体が喉を滑り落ち、体中に広がる。
その瞬間、少しだけ心が軽くなった気がした。
アップルティーの優しい甘さが、彼女を過去の苦い思い出から解放してくれるかのようだった。

「これでいいのかもしれない」
沙織はそう思うようになった。
自分の夢が叶わなかったとしても、今の生活にはそれなりの満足感がある。
日々の小さな幸せを見つけ、それを大切にすることができれば、それで十分だと感じるようになったのだ。

しかし、そんな彼女に、ある日突然転機が訪れる。
ある午後、いつものようにカフェでアップルティーを飲んでいると、見知らぬ女性が話しかけてきた。

「すみません、この席、いつもあなたが座ってるんですよね?」
その女性は、彼女と同じくらいの年齢で、どこか知的な雰囲気を漂わせていた。
沙織は驚きつつも微笑んで答えた。

「ええ、そうですけど……どうかしましたか?」
「実は、私もよくこのカフェに来ていて、あなたを見かけるたびに気になってたんです。いつも何かを書いているように見えたから……もし、作家さんだったりするのかなって思って。」

沙織は一瞬戸惑った。
作家を目指していた過去の自分を思い出させられるとは思ってもいなかったからだ。
しかし、正直に答えた。

「いえ、ただの会社員です。昔は小説を書いてましたけど、今はもう……ただの趣味ですね。」
女性は驚いた表情を見せた。
「そうなんですね。でも、その趣味、素敵だと思います。もしよかったら、私に何か読ませてもらえませんか?私は編集者なんです。」

編集者――。
それは沙織がかつて夢見た仕事でもあった。
思いがけない展開に、彼女は一瞬何を言えばいいのかわからなかったが、やがて静かに頷いた。

「そんなに大したものじゃないですけど……もしよかったら。」
それからというもの、彼女の生活は少しずつ変わっていった。
カフェでの時間は、再び執筆のための大切なひと時となり、アップルティーの香りとともに新たな物語が生まれる場所になっていった。
彼女の作品を読んだ編集者は、その才能に目を留め、彼女をサポートすることを約束してくれた。

そして、彼女の初めての短編小説が、数か月後に小さな文学誌に掲載されることが決まった。
その時、沙織はアップルティーを片手に、あの午後の出来事を思い返していた。

「夢は、形を変えてでも、きっと叶うものなんだ」
そう思いながら、彼女は再びカップに口をつけた。
アップルティーの優しい香りが、これからも彼女の物語とともに続いていくのだろう。