あの日、空は落ちた。
最初は、だれも気づかなかった。
朝はいつもどおりで、パンの焼けるにおいも、遠くの電車の音も、変わらなかったからだ。
ただ、窓を開けたとき、ぼくは少しだけ違和感を覚えた。
空が、低い。
手を伸ばせば、触れてしまいそうなほどに。
「ねえ、お母さん。空、近くない?」
そう言ったとき、ぱらり、と音がした。
青いかけらが、ひとつ、庭に落ちた。
それはガラスみたいにきらきらしていて、でも触るとやわらかくて、ほんのりあたたかかった。
ぼくがそれを拾い上げると、空が、またひとつ、静かに崩れた。
ぱりん。
今度ははっきり聞こえた。
見上げると、空に細いひびが入っていた。
雲の向こうまで続く、白いひびだ。
そこから、小さな青がぽろぽろとこぼれてくる。
「たいへんだ」
ぼくはくつもはかずに外へ飛び出した。
道には、同じように空のかけらが落ちていた。
青、少し白、夕焼けの色が混ざったものもある。
人々はみんな立ち止まって、それを見上げていたけれど、どうしていいかわからない顔をしていた。
ぼくは思った。
これは、きっと「落としもの」だ。
空が落ちたんじゃない。
だれかが、空を落としてしまったんだ。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
ぼくはポケットいっぱいに空のかけらを集めて、走り出した。
どこへ行けばいいのかはわからない。
でも、こういうときは、なぜか「行かなきゃいけない場所」がある気がするのだ。
曲がり角をひとつ、ふたつ。
知らない路地に入ると、風のにおいが変わった。
そこに、小さな店があった。
看板には、かすれた字でこう書いてある。
――「さがしもの、おあずかりします」
ドアを押すと、ちりん、と鈴が鳴った。
中は思っていたより広くて、棚にはたくさんのものが並んでいた。
片方だけの手袋、名前の消えかけたノート、ひびの入ったビー玉。
それらはどれも、なぜか少し光って見えた。
カウンターの奥に、おじいさんがいた。
「何をお探しかな」
静かな声だった。
ぼくはポケットから、空のかけらを取り出した。
「空です。たぶん、だれかが落としたんです」
おじいさんは、少しだけ目を細めて、それを見た。
「なるほど。これは大きな落としものだね」
「持ち主、わかりますか?」
おじいさんは、かけらを手に取って、耳にあてた。
すると、かすかに音がした。
風の音みたいな、遠くの笑い声みたいな、不思議な音だ。
「これはね、“だれか”のものじゃない」
「え?」
「空は、みんなのものだ。でも同時に、だれのものでもない。だから落としたのは、“ひとり”じゃないんだよ」
ぼくは少し考えた。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
おじいさんは、にこりと笑った。
「戻せばいい。元の場所に」
「でも、どうやって?」
するとおじいさんは、棚の奥から、小さなびんを取り出した。
中には、透明な光が入っている。
「これは“思い出の空気”だ。これをかけらに触れさせると、元の場所を思い出す」
ぼくはびんを受け取った。
軽くて、でもなぜか大事な重さがあった。
外に出ると、空はさらに低くなっていた。
今にも地面に触れそうだ。
ぼくは一番大きなかけらを地面に置いて、びんのふたを開けた。
ふわり、と風が出てきた。
その風は、夏のにおいだった。
セミの声、アイスの甘さ、入道雲の影。
ぼくの知っている空の記憶が、そこに詰まっていた。
かけらが、かすかに震えた。
そして、ふっと浮かび上がる。
それを合図に、ほかのかけらたちも、ひとつ、またひとつと宙に戻っていった。
まるで、帰り道を思い出したみたいに。
ぼくは何度もびんを振って、風を送り続けた。
すると、街じゅうの人たちも、同じように空を見上げていた。
だれかが笑った。
だれかが手を振った。
そのたびに、空は少しずつ、元の高さへ戻っていく。
最後のひびが、静かに閉じたとき、ぼくはその場に座り込んだ。
空は、いつもの空に戻っていた。
でも、ほんの少しだけ、やさしい色をしている気がした。
ポケットを見ると、ひとつだけ、かけらが残っていた。
小さな、小さな青。
ぼくはそれをそっと握った。
きっとこれは、ぼくの「さがしもの」だ。
あの日、空を落としたのは、もしかしたらぼくたち自身だったのかもしれない。
大事なものを、少しだけ忘れてしまったとき、空は重くなって、落ちてしまうのだ。
だからぼくは、ときどき空を見る。
ちゃんと、そこにあるかどうか。
そして、もしまた落ちそうになったら――
今度は、すぐに気づけるように。


