ちいさな『ありがとう』が迷子になる日

面白い

その日、町じゅうの「ありがとう」が、ふっと軽くなった。

朝、パン屋のおばあさんは、いつものように焼きたてのパンを並べながら、「今日も来てくれてありがとうね」と言ったはずだった。
けれど、口から出たその言葉は、湯気のようにすぐにほどけて、ふわりと空に浮かび上がり、そのまま行き先を見失った。

「おや?」とおばあさんは首をかしげたけれど、言葉はもう手の届かないところへ行ってしまっていた。

 

同じころ、学校でも。

「消しゴム貸してくれて、ありがとう」

そう言ったはずの少年の声は、相手の耳に届く前に、くるりと回って机の下へ落ちた。
ころころと転がった「ありがとう」は、床のすきまに入り込み、そのままどこかへ消えてしまう。

「……あれ?」と少年は不思議そうに笑う。

でも、なんだか少しだけ、心の奥がさびしくなった。

 

その日は、町のあちこちで同じことが起きていた。

渡されたおつりに添えられるはずの「ありがとう」も、席を譲られたときの「ありがとう」も、夕焼けを見ながらぽつりとこぼれる「ありがとう」も、みんな途中で迷子になってしまう。

言葉たちは、まるで帰り道を忘れた子どものように、ふらふらと漂い、やがて町は、ほんの少しだけ静かで、ほんの少しだけ冷たい場所になった。

 

そんな中、ひとりの少女が気づいた。

名前はミオ。

帰り道、風に乗ってきらきらと光るものを見つけたのだ。

「……なに、これ?」

手を伸ばすと、それは小さな言葉のかけらだった。

『あ…り……が……』

かすれているけれど、たしかにそれは「ありがとう」の一部だった。

「迷子、なの?」

ミオがそうたずねると、そのかけらはかすかに震えた。
まるでうなずくみたいに。

 

ミオは、その小さな「ありがとう」を両手でそっと包み込んだ。

「じゃあ、一緒に帰ろう」

どこへ帰るのかもわからないまま、それでもミオは歩き出す。

すると不思議なことに、道ばたや電柱の影、空のすみっこから、次々と「ありがとう」のかけらが集まってきた。

パン屋の前では、あたたかい香りのする「ありがとう」が。

学校の門のそばでは、少し照れくさい「ありがとう」が。

公園のベンチには、夕焼け色のやさしい「ありがとう」が、ぽつんと座っていた。

 

「みんな、迷子だったんだね」

ミオがそう言うと、集まった言葉たちは、ほっとしたようにふるえた。

 

やがて、ミオの胸の中で、それらはひとつにまとまり始める。

ばらばらだった言葉が、少しずつ形を取り戻していく。

『ありがとう』

 

その瞬間、ぽっとあたたかい光が広がった。

光は町じゅうにすうっと染みわたり、迷子になっていた「ありがとう」たちが、もとの持ち主のもとへと帰っていく。

 

パン屋のおばあさんは、ふいに胸があたたかくなって、もう一度言った。

「来てくれて、ありがとうね」

今度はちゃんと、その言葉は届いた。

 

学校でも、少年が少し照れながら言い直す。

「さっきは……ありがとう」

その声は、きちんと相手の心に落ちて、小さくやさしい波紋を広げた。

 

町は、元のように、いや、それ以上にやわらかい空気に包まれていく。

 

ミオは、空を見上げた。

もう「ありがとう」は迷っていない。

けれど、ひとつだけ、小さなかけらが、ミオの手のひらに残っていた。

 

「これは……?」

そのかけらは、あたたかく光っている。

まるで、「きみへ」と言っているみたいに。

 

ミオは、少しだけ考えてから、そっと胸にしまった。

 

「……ありがとう」

 

その日から、町ではときどき、「ありがとう」が風に乗ってきらりと光ることがある。

それはきっと、誰かの言葉が、ちゃんと届いたしるし。

そして、もしまた迷子になりそうになっても、きっと大丈夫。

小さな「ありがとう」は、帰る場所を、もう知っているから。