その朝、ぼくは自分のポケットがくしゃみをした音で目を覚ました。
「へっくしょい!」
ベッドの上で体を起こすと、パジャマのポケットが小さくふくらんで、ぷるぷる震えている。
「……今の、ぼくじゃないよね?」
そっと指でつまんでみると、また聞こえた。
「へくちっ」
明らかにポケットの中だ。
恐る恐る手を入れてみると、指先にふわふわしたものが触れた。
取り出してみると、それは親指ほどの大きさの、丸い生き物だった。
綿菓子みたいに柔らかくて、金色にほんのり光っている。
そしてそいつは、小さな鼻をひくひくさせた。
「へくしっ!」
「わっ!」
思わず手から落としそうになる。
丸い生き物は、空中でぽよんと跳ねて、ぼくの手のひらに戻ってきた。
「きみ……だれ?」
生き物は、くりっとした目でぼくを見上げてから、また小さなくしゃみをした。
「へくちっ」
その瞬間、ふしぎなことが起きた。
窓の外で鳴いていたカラスが、急にかわいい声で「おはよう」と鳴いたのだ。
台所からは、お母さんの歌声が聞こえてくる。
いつもは寝起きで機嫌が悪いのに、今日はやけに楽しそうだ。
ぼくは丸い生き物を見つめた。
「……もしかして、くしゃみで何か起きてる?」
生き物は得意げに、胸(たぶん胸)を張った。
ぼくはそいつをポケットに入れて、学校へ行くことにした。
歩くたび、ポケットの中がふわふわ揺れる。
角を曲がったところで、いつも怖い顔をしているパン屋のおじさんに会った。
そのとき。
「へくちっ!」
ポケットがくしゃみをした。
するとおじさんが突然、
「今日はドーナツひとつおまけだ!」
と言って、袋にもう一個入れてくれた。
ぼくはポケットをのぞいた。
「きみ、すごいね」
生き物は満足そうに丸くなった。
学校でも、くしゃみは何度か起きた。
友だちとけんかしそうになった瞬間。
「へくしっ」
なぜか二人で同時に笑ってしまった。
算数のテストで鉛筆を落としたとき。
「へくちっ」
となりの席の子が拾ってくれて、しかもヒントまでくれた。
どうやらこの生き物のくしゃみは、世界をほんの少しだけやさしくするらしい。
帰り道、ぼくは公園のベンチに座ってポケットをのぞいた。
「ねえ、きみって何?」
丸い生き物は、ふわっと外に飛び出して、ぼくの手のひらに乗った。
そして、くしゃみの前みたいに鼻をむずむずさせる。
ぼくは慌てた。
「まって! 今ここでくしゃみしたら何が起きるの?」
生き物はこたえない。
ただ、くすぐったそうに震える。
そして——
「へくしっ!」
その瞬間、公園の木から一枚の葉っぱが落ちてきた。
ふわふわと風に揺れて、ぼくの膝に乗る。
それだけだった。
「……あれ?」
ぼくは拍子抜けして笑った。
「大事件じゃないんだ」
生き物は、少し照れたみたいに丸くなる。
そのとき、ぼくは気づいた。
パン屋のおまけも、友だちとの笑いも、鉛筆を拾ってくれたことも、全部すごく小さなことだ。
でも、なんだか今日は一日ずっと楽しかった。
ぼくは生き物をそっとポケットに戻した。
「わかった。きみ、しあわせなんだね」
ポケットの中で、生き物は嬉しそうに転がった。
そして帰り道、もう一度だけ小さなくしゃみをした。
「へくちっ」
そのとき、すれ違った知らない人が、ぼくにちょっとだけ笑いかけた。
ほんの一瞬のことだったけど、胸の中がぽかぽかした。
ぼくはポケットを軽く叩く。
「ありがとう」
すると中から、くすぐったそうな声がした。
どうやら、しあわせは——
ポケットの中で、ときどきくしゃみをするらしい。

