その研究所には、重たい心しか入れない。
街のはずれ、古い観測塔を改装した「心象浮力研究所」は、看板も出ていないのに、なぜか迷った人だけがたどり着く場所だった。
扉には小さくこう書かれている。
――ここでは、心の重さを量ります。
初めてそこを訪れたとき、わたしの胸の中には、言葉にならない澱が沈んでいた。
うまく笑えなかった日々、言えなかった「ごめんね」、届かなかった約束。
透明なはずのそれらが、鉛みたいにずしりと居座っている。
白衣を着た所長は、風船のように丸い眼鏡をかけていた。
「ようこそ。あなたの心、今日は何グラムくらいでしょうね」
通されたのは、理科室によく似た部屋だった。
天井からは無数の糸が垂れ、その先には色とりどりの小瓶が揺れている。
瓶の中には、光の粒のようなものがふわりと浮かんでいた。
「これは、回収された“ためいき”です」
所長は一つの瓶を手に取る。
蓋を少しだけ開けると、しゅわ、と淡い光がこぼれた。
「人はね、ためいきを吐くとき、ほんの少しだけ心を外に出している。でも地面に落ちる前に、ここで拾ってあげるんです」
わたしは、部屋の中央にある大きな天秤の前に立たされた。
片方の皿に、所長が透明な結晶を置く。
もう片方に、わたしは両手をそっと乗せた。
ぎい、と音を立てて、わたしのほうが沈む。
「思い出が固まりかけていますね。悪いことではありません。ただ、少しだけ軽くしましょう」
所長は、棚から一本の細長い試験管を取り出した。
ラベルには「未送信の手紙」とある。
「言えなかった言葉は、溜めておくと重くなる。でも、誰かに渡さなくても、形にして外に出せばいいんです」
わたしは試験管を受け取り、机に向かった。
白い紙に、あの日言えなかった言葉を書く。
震える字で、それでも正直に。
――あのとき、こわかっただけなんだ。
書き終えた紙を折り、試験管に入れると、不思議なことにそれは淡い光に変わった。
所長がそれを天秤の皿にそっと置く。
今度は、ほんの少しだけ、わたしの皿が浮いた。
「ほらね。心は、外に出すと軽くなる」
研究所には、ほかにも奇妙な装置があった。
涙を蒸留して虹に変えるフラスコ。
失敗を砂糖菓子に変換するオーブン。自分で自分を許す練習をするための、小さな風洞実験室。
風洞室に入ると、やわらかな風が頬を撫でた。壁一面に、誰かの言葉が貼ってある。
――それでも、今日を生きた。
――ちゃんと、がんばっていた。
――泣いたぶんだけ、やさしくなれる。
風はそれらの言葉を巻き上げ、わたしの胸にそっと貼りつけていく。
気づけば、胸の奥にあった鉛は、いつのまにか砂になっていた。
さらさらと崩れ、隙間から光が差し込む。
最後に、所長は小さな風船をくれた。
透明で、中にはわたしが書いた言葉の光が浮かんでいる。
「これは、あなたの浮力です。重くなったら、またおいで。でもね、本当はもう知っているでしょう?」
所長はにっこり笑う。
「軽くなる方法は、あなたの中にある」
研究所を出ると、空は驚くほど高かった。
深呼吸をひとつする。
吐いた息が、白くほどけて、どこかへ昇っていく。
胸に手を当てると、そこには確かに重さが残っている。
けれど、それはもう、沈めるための重さじゃない。
わたしを地面に立たせ、次の一歩を踏み出させるための重さだ。
ふわり、と風が吹く。
手にした風船が、空へ引かれる。
わたしはその糸を、ぎゅっと握りしめたまま、少しだけ足取りを軽くして、街へ戻っていった。

