眠らないパン屋と踊る朝

面白い

そのパン屋は、夜を閉めない。

商店街の端、古い時計台の向かいにある小さな店。
看板にはかすれた文字で「夜明け前ベーカリー」とあるが、ほんとうは夜明けだけでなく、昼も夕方も、そしていちばん深い夜も、ずっと灯りがともっている。

店主の湊は、眠らない人だった。

正確には、眠れなくなった人、だ。

十年前の春、湊は「朝」をひとつ失くした。
誰かの隣で迎えるはずだった朝。
約束していた焼きたてのパンの匂いと、まだ少し冷たい空気の中で笑うはずだった時間。
それが来なかった日から、湊は目を閉じるのが怖くなった。

眠れば、朝が来る。

でも、その朝は、もう二度と同じではない。

だから彼は、朝が来るまで起きていることにした。
来る瞬間を、ちゃんと見届けるために。

真夜中の二時、三時、店には不思議な客が訪れる。
夜勤帰りの看護師、失恋したばかりの大学生、家に帰りたくない会社員。
みんな、まだ暗い世界の隙間からこぼれ落ちたみたいな顔をしている。

湊は、黙ってパンを差し出す。

少し甘いブリオッシュ。
塩の効いたフォカッチャ。
中身のない、空洞だけの丸パンもある。

「これ、何も入ってないんですね」

ある朝、ひとりの少女が言った。
制服の上に古いコートを羽織り、まだ星の残る空を背に立っている。

「入れなかったんだ」

湊は答える。

「何か入れると、重くなるから」

少女はそのパンを両手で持ち、くるりと回った。

その瞬間だった。

窓の外が、ふわりと色づいた。
藍色が、薄桃にほどける。
遠くで鳥が鳴く。
少女は笑いながら、店の真ん中で踊り出した。

大げさなバレエでも、決まった振り付けでもない。
ただ、朝が来ることを喜ぶみたいに、足を鳴らし、手を広げる。

「朝って、毎日ちゃんと来るんですよ」

くるくる回りながら、少女は言う。

「誰かが見てなくても」

湊は、初めてその言葉を真正面から受け取った。

彼はずっと、朝を見張っていた。
逃げないように、裏切らないように。
けれど朝は、見張らなくても、勝手にやって来るものだったのかもしれない。

少女の影が、床に長く伸びる。
オーブンの中で、最後の生地がふくらむ音がした。

「ねえ、店主さん」

少女は踊るのをやめ、湊をまっすぐ見た。

「あなたも、踊ればいいのに」

湊は、笑った。
何年ぶりだろう。
声を出して笑うのは。

「僕は踊れないよ」

「じゃあ、少しだけ」

少女は手を差し出す。

外では、完全に朝が生まれていた。
空はもう青く、商店街のシャッターがひとつ、またひとつと上がる。

湊は、その手を取った。

ぎこちなく一歩。
もう一歩。
パンの香りの中で、二人はゆっくり揺れた。
特別な音楽はない。
ただ、街が目覚める音と、まだ温かいパンの匂い。

そのとき湊は気づく。

朝は、失くしたものを思い出させる時間ではなく、今ここにあるものを照らす時間なのだと。

少女はやがてパンを抱えて店を出ていった。

「また、夜明けに来ます」

そう言い残して。

湊は、はじめて椅子に腰を下ろした。
窓から差し込む光が、眠気のようにやわらかく肩に降りる。

店は相変わらず、眠らない。

けれどその日から、湊は朝が来たあと、ほんの少しだけ目を閉じるようになった。

夢の中で、誰かが踊っている。

パンの匂いといっしょに、朝が静かに笑っている。