この街では、毎朝六時になると空に「しあわせ予報」が映し出される。
雲の形をしたスクリーンに、やわらかな声が流れるのだ。
「本日のしあわせ予報。午前中はやや不安定。ところにより快晴」
その“ところにより”が、どこなのかは誰にもわからない。
わたしは予報観測所で働いている。
正確には、しあわせの気圧を測る係だ。
街のあちこちに置かれた観測瓶には、人々のため息や笑い声が集められている。
それを分析して、今日のしあわせの流れを読む。
けれど本当は、予報は完璧じゃない。
しあわせは、天気よりも気まぐれだ。
ある日、観測データが大きく乱れた。
数値上は、街全体が厚い雲に覆われるはずだった。
低気圧。涙の確率七十パーセント。
なのに、予報原稿の最後に、見慣れない一文が紛れ込んでいた。
「ところにより快晴」
誰が書き足したのだろう。
システムログにも痕跡がない。
わたしは気になって、街に出た。
商店街の八百屋の前で、小さな女の子が泣いていた。
手に持っていた風船が空に逃げてしまったらしい。
空は灰色で、今にも雨が落ちてきそうだ。
そのとき、近くのパン屋の青年が脚立を持って走ってきた。
屋根に引っかかった風船のひもを、器用に引き寄せる。
「ほら、つかまえた」
女の子は目を丸くし、それから笑った。
その瞬間、わたしの携帯観測器が震えた。
数値が跳ね上がる。
局地的な高気圧。
半径三メートルだけの快晴。
空は相変わらず曇っているのに、そこだけ光が差し込んだように感じた。
わたしははっとする。
“ところにより”とは、場所のことではないのかもしれない。
人の心のことだ。
夕方、観測所に戻ると、上司が困った顔で言った。
「今日は予報が外れたな。大雨になるはずが、被害はほとんどなかった」
確かに、涙の確率は高かった。
でも同時に、あちこちで小さな快晴が生まれていたのだろう。
風船を取り戻した場所、バスで席を譲った場所、久しぶりに「ごめん」と言えた場所。
どれも地図には載らない。
けれど確かに存在する。
翌朝、わたしは原稿にそっと一文を加えた。
「本日のしあわせ予報。雲が広がりやすいでしょう。しかし、ところにより快晴」
放送が流れると、街のあちこちで誰かが少しだけ顔を上げる。
快晴になる“ところ”を、自分で探してみようと思うのだ。
しあわせは、降ってくるものじゃない。
生まれるものだ。
観測所の窓から見る空は、今日も曇り空だった。
それでもわたしは知っている。
この街のどこかで、いま、半径三メートルの青空が広がっていることを。
しあわせ予報は、今日もところにより快晴。


