きみと世界の裏口から

面白い

世界には裏口がある、ときみが言い出したのは、梅雨の終わりだった。

放課後の教室で、窓の外に垂れこめる雲を見上げながら、きみはひどく真面目な顔をしていた。
「正面から出入りするから、みんな同じ景色しか見られないんだよ。裏口はね、忘れられたもののためにある」

ぼくは冗談だと思った。
けれどきみは、本気で世界地図の端を指さした。
海のさらに外側、余白の部分。
そこに、うすく鉛筆で描いた扉の印。

「今夜、行こう」

夜になると、街は思ったより静かだった。
信号の青は、昼よりも冷たい色をしている。
きみは迷いなく路地を曲がり、古い映画館の裏手に回った。
閉館して久しいその建物の、非常階段の下に、小さな鉄の扉があった。

「ここ」

鍵はかかっていなかった。

扉を開けると、潮の匂いがした。
階段を降りるはずなのに、足元は砂浜で、遠くにゆるく波打つ海が広がっている。
夜なのに、空は薄明るく、星の代わりに、見覚えのあるものが浮かんでいた。

古いランドセル。
片方だけの手袋。
返事を書かなかった手紙。
それらが、静かに漂っている。

「ここは、裏口からしか来られない場所」
きみは砂を踏みしめながら言った。
「世界に置いていかれたものが、流れ着く浜辺」

ぼくは、胸の奥がざわつくのを感じた。
漂うものの中に、見覚えのあるノートがあった。
小学生の頃、書きかけでやめた物語。
主人公は勇者になれず、途中で投げ出されたまま。

「取り戻せるの?」
「ううん」ときみは首を振る。
「でも、さよならは言える」

きみは空に浮かぶ何かに手を伸ばした。
それは、折れた銀色の指輪だった。
「約束、守れなかったんだ」
小さく笑う。
その笑顔は、昼間よりも少し大人びていた。

ぼくはノートに触れた。
指先をすり抜けるように、文字がほどけていく。
勇者は最後に、剣を捨てて家に帰る選択をしていた。
知らない結末が、そこにあった。

「世界はね、前に進むために忘れる。でも裏口は、忘れたことをちゃんと置いておく場所なんだよ」

波が寄せては返す。
そのたびに、空に浮かぶものが少しずつ薄れていく。
きみは浜辺の奥へ歩き出した。

「もう帰ろう。朝が来ると、ここは閉まるから」

振り返ったとき、きみの姿が少し透けて見えた。
「ねえ、きみも何か置いてきたの?」
問いかけると、きみは困ったように笑った。

「ぼく自身、かもしれない」

その言葉の意味を理解する前に、強い潮風が吹いた。
目を閉じ、開いたとき、ぼくは映画館の裏手に立っていた。
扉は消えている。
朝焼けが街を染め始めていた。

教室で、きみの席は空いていた。
誰も、きみの名前を覚えていなかった。

ただ、机の中に一枚の紙切れがあった。
世界地図の余白に、小さな裏口の印。
そして、走り書き。

――忘れないで。裏口は、きみの中にもある。

窓の外では、新しい朝が始まっている。
ぼくは目を閉じる。
胸の奥に、ひそやかな砂浜の感触がある。

あの浜辺は、失くしたもののためだけじゃない。
まだ選ばれていない未来や、言えなかった言葉のためにも、きっと開いている。

いつかまた、正面玄関ではなく、ひっそりとした裏口から。
ぼくは、世界に入り直すだろう。