その朝の冒険は、ひとつのくしゃみから始まった。
「へっくしゅん!」
わたしのくしゃみは、やけに澄んだ音をしていた。
春の花粉のせいにしては、あまりに軽やかで、どこか遠くへ飛んでいきそうな響きだった。
くしゃみのあと、窓の外から小さな声がした。
「いまの、合図だよね?」
カーテンをめくると、ベランダの手すりに、見たことのない小さな生きものが立っていた。
手のひらに乗りそうなくらいの背丈。
透きとおった羽をもち、風に揺れる綿毛みたいな髪をしている。
「やっと聞こえた。ずっと待ってたんだ」
「……だれ?」
「くしゃみの案内人。きみのくしゃみ、ちゃんと開いたよ」
「開いた?」
わたしが首をかしげると、小さな生きものは指先で空をなぞった。
すると、空気が薄く裂けるみたいに、ベランダの向こうに細い道が現れた。
光でできた、糸みたいな道だ。
「くしゃみはね、世界のほころびを一瞬だけゆるめるんだ。さあ、急いで。すぐ閉じちゃう」
わたしはパジャマのまま、そっとベランダに出た。
足を踏み出すと、光の糸は意外としっかりしていて、わたしの体重をちゃんと支えてくれる。
道の先には、見慣れない町があった。
それは、わたしの町によく似ているけれど、どこか少しずつ違う。
電信柱は低く、空は近く、歩道のすみには落ち葉ではなく、忘れられた言葉が積もっている。
「ここは、くしゃみの向こう側。きみが言えなかった言葉が落ちてくる場所」
小さな案内人が、わたしの肩にとまる。
足元を見ると、「ごめんね」とか「ありがとう」とか、「ほんとはね」とか、そんな言葉たちが、ふわふわと漂っている。
昨日、友だちにうまく言えなかった「大丈夫?」も、その中にあった。
わたしはそっと、それを拾い上げる。
すると言葉は、あたたかく脈打った。
「持って帰れるよ」
「どうやって?」
「もう一回、くしゃみをするんだ」
そんなの、できるわけがない。
くしゃみは勝手に出るものだ。
でも、そのとき、鼻の奥がむずむずした。
——へっくしゅん!
世界がふっと揺れる。
気づけば、わたしは自分の部屋に戻っていた。
手の中には、あたたかな光の粒が残っている。
その日の午後、わたしは友だちに会いに行った。
言えなかった「大丈夫?」を、今度はちゃんと声にする。
光の粒は、わたしの胸の中で静かにほどけ、ただの言葉になった。
友だちは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「ありがとう。ちょっとだけ、つらかったんだ」
その笑顔を見た瞬間、わたしは思う。
くしゃみは、ただのくしゃみじゃないのかもしれない。
言えなかったことを、世界の向こうから連れ戻す、小さな扉なのだ。
帰り道、鼻の奥がまた、ほんの少しだけむずむずした。
でも今度は、くしゃみは出なかった。
きっと、今日はもう十分だから。
冒険は、ほんの一瞬でいい。
言えなかった言葉が、ちゃんと届くなら。


