その朝、ニュースキャスターは真顔で告げた。
「本日未明、世界から一文字が消失しました」
冗談のようだった。
けれど街の看板はたしかにどこかおかしい。
駅前の「平和通り」は「平和通」に、「ありがとう」は「ありがと」に、「さようなら」は「さような」に変わっている。
たった一文字。
けれどそれは、語尾や呼吸の最後にある、小さな支えのような文字だった。
専門家たちは、その文字を仮に「終」と呼んだ。
言葉を終わらせ、意味を閉じる役目をしていた文字だと。
「終」がなくなった世界では、すべてが少しずつ開きっぱなしになった。
店じまいの時間になってもシャッターは半分だけ下り、電車のドアは完全に閉まらない。
告白の言葉も、別れの言葉も、どこか宙ぶらりんだ。
わたしは図書館で働いている。
返却された本の最後の一文が、どれも奇妙に途切れていることに気づいた。
『そして、彼は静かに目を閉じ』
『わたしたちは、きっとまた出会え』
終われない物語が、棚にずらりと並んでいる。
利用者のひとり、少年が言った。
「ねえ、どうして最後がなくなっちゃったの?」
わたしは答えられなかった。
ただ、胸の奥で何かが引っかかっていた。
まるで、言えなかった言葉がまだ残っているみたいに。
思い出す。あの人に最後に伝えた言葉。
「またね」
本当は、「またね」と言ったあとに続くはずだった。
“好きだよ”。
けれど怖くて、言葉を閉じる勇気がなかった。
わたしは自分の物語を、自分で終わらせなかった。
世界から消えた「終」は、もしかしたら、誰かが使わなかった言葉の集まりなのかもしれない。
終わらせなかった約束、閉じなかった気持ち、言い切らなかった想い。
図書館の奥に、立入禁止の書庫がある。
そこには、欠ける前の本が保管されているという噂があった。
ある夜、わたしは鍵を借りてその扉を開けた。
古い紙の匂いのなか、一冊だけ、完全な文章の本を見つける。
最後のページには、たった一文字、墨のように濃く書かれていた。
「終」
その文字に触れた瞬間、胸の奥にしまっていた言葉があふれた。
好きだよ。
声に出してみる。
図書館の静寂が、ふっと震える。
すると遠くで、何かがきちんと閉まる音がした。
シャッターが下りきり、ドアがかちりと合わさる音。
翌朝、街の看板は元に戻っていた。
「ありがとう」は最後まで言い切られ、「さようなら」はきちんと別れを告げている。
本の最終行も、しっかりと閉じられていた。
少年が駆け寄ってくる。
「直ったんだね!」
「うん」
わたしはうなずく。
けれど、あの一文字は世界に戻ったのではない。
わたしたち一人ひとりの中に、帰ってきただけなのだ。
終わらせる勇気は、失うことと似ている。
けれど本当は、次を始めるための扉だ。
あの日言えなかった言葉を、わたしはもう一度胸のなかで結ぶ。
物語は、きちんと終わるからこそ、美しい。
そして、終わりがあるから、また始められるのだ。


