わたしの仕事は、物語の余白を修理することだ。
余白、といっても印刷の話ではない。
誰かが書いた物語の、語られなかった部分。
言えなかった本音。
選ばれなかった結末。
そこに空いた白い裂け目を、そっと縫い合わせるのがわたしの役目だった。
部署は地下にある。
窓のない部屋で、今日も机の上に一冊の物語が置かれている。
タイトルは「雨の日の約束」。
作者名はかすれて読めない。
ページをめくると、主人公の少女は、親友との約束を破ったまま大人になる。
再会はなく、謝罪もない。
物語はそこで唐突に終わっている。
けれど、わたしには見える。
最後のページの下、インクの届かなかった余白に、小さな震えがある。
言葉にならなかった「ごめんね」が、まだそこに残っている。
わたしは針を取る。
銀色の針は、言葉の繊維だけをすくい上げる特別製だ。
糸は透明で、読者の目には見えない。
余白に針を通すと、遠い雨音が聞こえてくる。
少女の鼓動と、もうひとりの沈黙が、重なってほどける。
「本当は、会いに行きたかった」
それは書かれなかった一文だ。
わたしはそれを糸にして、物語の終わりに縫い留める。
たった一文。されど、それだけで世界は少しだけ傾きを変える。
修理が終わると、本はわずかに重くなる。
余白が、空白ではなくなるからだ。
だが、すべてを埋めることはしない。
余白は物語の呼吸だ。
埋めすぎれば、物語は息を詰まらせてしまう。
ある日、机に置かれたのは、見覚えのある装丁の本だった。
淡い青の表紙。
角に小さな傷。
タイトルはない。
ページを開いた瞬間、胸の奥がきしんだ。
そこに書かれていたのは、わたしの物語だった。
物語の中の「わたし」は、余白を修理する仕事をしている。
だが終盤、重大な修理をためらい、誰かの余白を放置したまま物語は途切れている。
最後の一行。
――彼女は、自分の余白を見ないふりをした。
手が震えた。
ページの下に、深く大きな白がある。
これまで見てきたどんな余白よりも広く、冷たい。
耳を澄ますと、そこから声がする。
「あなたは、誰の物語を縫っているの?」
問いは、わたし自身のものだった。
余白を修理することで、わたしは他人の物語に安心を与えてきた。
けれど、自分の未完成には触れなかった。
失った約束。
言えなかった別れ。
閉じたままのページ。
針を持つ手が、初めて迷う。
自分の余白を縫えば、この物語は終わってしまうかもしれない。
余白があるから、続いていられたのに。
それでも、わたしは針を落とした。
透明な糸が、白い空間を横切る。
「まだ、書き直せる」
その一文を、わたしは自分の物語の余白に縫い込んだ。
すると、ページの向こうで、わたしではない誰かが息を吸う気配がした。
顔を上げると、地下の部屋に薄い光が差し込んでいる。
窓はないはずなのに。
机の上の本は、もう青い表紙ではなかった。
新しい装丁。
タイトルがある。
『余白を修理するひと』
作者名は、まだ書かれていない。
その空欄を見て、わたしは少しだけ笑う。
すべての余白を埋める必要はない。
物語は、書かれなかった部分ごと、誰かの手に渡っていくのだから。
今日もまた、新しい本が届く。
余白は、壊れるためにあるのではない。
誰かが触れるのを、待っているだけだ。
わたしは針を持ち、そっとページを開いた。

