この街では、嘘は長く口にすればするほど、やがて現実になる。
最初にそれが起きたのは、商店街の小さなパン屋だった。
店主が売れ残りをごまかすために「今日は全部売り切れました」と毎晩言い続けた。
三日目、棚から本当にパンが消えた。
焼いたはずの分まで、最初から存在しなかったことになった。
人々は不思議がりながらも、すぐに慣れた。
便利な嘘を口にすれば、世界が少し都合よく変わるのだ。
わたしは市役所の「調整係」に勤めている。
嘘が現実になることで生じる歪みを記録する仕事だ。
「彼は最初からいなかった」
そう誰かが言い続ければ、戸籍も写真も、記憶さえも薄れていく。
わたしたちは消えかけた名前を台帳に書き留め、かろうじて残る影を保管する。
わたしには恋人がいた。
透という名の、静かな人。
彼はこの街が嫌いだった。
「みんな、自分の弱さを消すために嘘を使う」と彼は言った。
そしてある夜、わたしに告げた。
「もし僕がいなくなったら、君はどうする?」
冗談だと思って、わたしは笑った。
「あなたなんて、最初からいなかったかもね」
軽い嘘だった。
空気を和ませるための、どこにでもある言葉。
けれど翌朝、彼の歯ブラシは一本しかなかった。
写真立てには、わたし一人だけが写っていた。
メッセージの履歴も、部屋の合鍵も、何もかもが消えていた。
市役所に駆け込むと、台帳の彼の名前が薄く滲んでいた。
「言い続けましたか?」と同僚が問う。
わたしは首を振った。
たった一度だ。
たった一度の嘘だ。
だが、この街では、想いの強さが回数を超えることがある。
わたしは彼を取り戻すため、逆の嘘をつくことにした。
「透はいる」
「透は今日も帰ってくる」
「透はわたしを愛している」
朝も、昼も、夜も、呪文のように繰り返す。
最初は空虚だった言葉が、やがて重みを帯びる。
通りを歩く人が、ふと「透って誰だっけ」とつぶやいた。
パン屋の店主が「最近、あの背の高い青年を見たよ」と言った。
世界が、少しずつ書き換わる。
ある夕暮れ、玄関のチャイムが鳴った。
扉の向こうに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
「こんばんは。僕、透です」
声は似ていた。
けれど、瞳の奥にわたしを知る色はない。
彼は、わたしの嘘が作った透だった。
わたしは気づく。
この街で蘇るのは、真実ではない。
語られた物語のほうだ。
本当の彼は、わたしの軽い嘘に傷つき、どこか遠くでまだ存在しているのかもしれない。
青年は微笑む。
「今日から、よろしく」
わたしは答えられない。
もし受け入れれば、嘘は完全な現実になる。
拒めば、今度こそ透という名は完全に消える。
わたしは静かに言った。
「ごめんなさい。あなたは、透じゃない」
その瞬間、青年の輪郭が淡く揺らぐ。
消えていく。
わたしの嘘が、ほどけていく。
世界は少しだけ不便になった。
消したい過去も、直したい言葉も、そのまま残る街に戻りつつある。
それでもわたしは毎朝、小さくつぶやく。
「透は、どこかで生きている」
これは嘘だろうか。
願いだろうか。
この街ではもう、誰もそれを確かめない。


