物語の主人公は、最初、海野透(うみの・とおる)という青年だった。
透は「終わりの回収係」と呼ばれる仕事をしている。
街の片隅に落ちている、使われなかった結末を拾い集めるのだ。
告白されなかった恋、出されなかった手紙、言えなかった「ごめん」。
それらは透明な欠片になって、夜の路地に散らばる。
透はそれを、瓶に入れて持ち帰る。
瓶の中で欠片は小さく鳴る。
風鈴のような、遠い波のような音。
ある晩、透は橋の上で、ひときわ大きな欠片を見つけた。
それは、誰かの人生そのものの「続き」だった。
物語が、途中で切れている。
触れた瞬間、透の視界が揺らいだ。
自分の名前が遠くなる。
海野透という輪郭が、紙の上の鉛筆の線のように、少しずつ薄れていく。
「やっと、見つけてくれた」
声がした。
橋の欄干に腰かけていたのは、知らない少女だった。
透と同じコートを着て、同じ瓶を抱えている。
「それ、わたしの物語なの」
少女は言う。
透は問い返そうとしたが、自分の声が思い出せない。
代わりに、少女の声が胸の奥で響く。
「あなたは、わたしが途中で投げ出した主人公。わたしが進めなかったから、代わりに歩いてくれていたの」
透は理解する。
自分は最初から、誰かの代役だったのだと。
少女は橋の中央に立つ。
街の灯りが、彼女の輪郭をくっきりと描く。
「でも、もう逃げない」
少女が欠片に触れると、世界の焦点が移動した。
透の視界は、今度は外側から彼女を見る位置へと変わる。
胸の鼓動が、自分のものではなくなる。
重さも、体温も、別のものだ。
透の物語は、そこで途切れる。
――ここからは、わたしの話だ。
わたしの名前は、冬川澪(ふゆかわ・みお)。
終わりを回収していたのは、わたしだった。
透という青年は、わたしが作った「仮のわたし」。
悲しみに触れても壊れないように、少し鈍く、少し優しい。
でも、本当は知っていた。
誰かの終わりを拾い集めるたび、自分の物語が空白のまま残っていることを。
橋の上で、わたしは透を見送る。
彼は消えるのではない。
瓶の中で、透は一つの欠片になる。
使われなかった主人公の、静かな輝き。
「ありがとう」
わたしが呟くと、瓶の中で小さく音が鳴る。
風鈴のように、遠い波のように。
わたしは歩き出す。
今度は、誰の代役でもない。
途中で止まっていた物語の続きを、自分の足で進めるために。
橋の向こうには、まだ知らない朝が待っている。
主人公は、交代した。
けれど物語は、途切れない。
名前が変わっても、歩き出す意志だけは、同じ場所で光っているのだから。

