きみがいなくなるまで、世界は静かになる。
それは噂ではなく、観測された事実だった。
最初に気づいたのは、海辺の研究所だった。
白い建物の窓から見える波が、ある日を境に音を立てなくなった。
水は確かに揺れているのに、砕けるはずの音だけが消えている。
研究員たちは計器を疑い、耳を疑い、それでも最後に残ったひとつの仮説を口にした。
「彼女が、いなくなりかけている」
きみは特別な力を持っていたわけじゃない。
ただ、きみが生まれた日から、世界はわずかに賑やかになった。
風はよく鳴り、木々はよくざわめき、街の雑踏は柔らかなうねりを持った。
誰もそれをきみのせいだとは思わなかったけれど、統計は正直だった。
きみが笑えば鳥のさえずりが増え、きみが眠れば夜は深く静まった。
そして今、きみの心臓がゆっくりと弱まるにつれて、世界は音を失っていく。
街の信号は色だけを変え、車は滑るように走る。
犬は吠えず、子どもたちの笑い声は口の形だけになる。
音楽家は弦を震わせるが、空気は震えない。
指揮者が腕を振っても、ホールには沈黙だけが落ちる。
医師たちは病名を探した。
科学者たちは原因を追った。
宗教家たちは祈りを重ねた。
でも、誰もが薄々わかっていた。
これは病ではなく、均衡なのだと。
きみは世界の「ざわめき」そのものだった。
病室の窓から見える空は、青いのに、風の気配がない。
カーテンは微動だにせず、遠くの海もただ光っているだけだ。
わたしはベッドのそばに座り、きみの手を握る。
指先はまだ温かい。
「ねえ、聞こえる?」
きみは目を開け、かすかに笑う。
声はもう、空気を揺らさない。
でも唇の動きでわかる。
――しずかだね。
うん、とわたしはうなずく。
本当は怖かった。
きみがいなくなったあと、完全な無音が訪れるのではないかと。
波も、風も、鼓動も、すべてが止まるのではないかと。
そのとき、きみの指がわずかに動いた。
とくん。
世界でいちばん小さな音が、確かに鳴った。
それはきみの心臓の音だったのか、それともわたしの涙が落ちる音だったのか、わからない。
でも、その一滴の響きに呼応するように、遠くで何かが揺れた。
窓の外の木々が、ほんのわずかにざわめく。
海が、ささやくように白く崩れる。
きみは目を閉じる。
静寂がまた広がる。
でも今度は、完全ではない。
どこかに、小さな余白のような音が残っている。
それは、きみが世界に預けたものだった。
やがてきみの呼吸が止まる。
医師が静かに時間を告げる。
誰も声を出さない。
それでも、わたしには聞こえた。
とくん、と。
今度は、わたしの胸の奥で。
世界は完全な静けさにはならなかった。
波は再び砕け、風は戻り、遠くで誰かが笑った。
その音は以前よりも少しだけ弱く、不揃いで、ぎこちない。
でも確かに、鳴っている。
きみがいなくなるまで、世界は静かになった。
そして、きみがいなくなったあとも、世界は少し静かなまま、続いていく。
それは喪失の跡であり、きみが確かにここにいた証だった。


