声が文字になる世界

面白い

声が文字になる世界では、人々は慎重に息を吸ってから話す。
発した音が空中でほどけ、白や黒や淡い色の文字となって浮かび、やがて地面や壁や、誰かの心に落ちていくからだ。

「おはよう」

そう言えば、「おはよう」という文字が胸の高さに現れ、ゆっくりと沈む。
優しい声なら丸みを帯び、怒りを含めば角ばる。
嘘は歪み、沈黙は何も生まない。
文字は消せない。
だからこの世界では、声を出すことは記録を残すことと同じだった。

私は文字回収係として働いている。
街に溢れすぎた言葉を集め、分類し、保管庫へ運ぶ仕事だ。
言い過ぎた謝罪、届かなかった告白、勢いで吐き出された罵声。
文字になった声は風に流され、路地に溜まり、時に人を傷つける。
だから誰かが拾わなければならない。

ある日、駅のホームで奇妙な文字を見つけた。
「――――」

文字なのに音を失っていた。
形はあるのに、意味が欠けている。
触れると、ひどく懐かしい気配がした。

それを拾い上げた瞬間、胸の奥がひりりと痛んだ。
思い出したのは、もう声を出さなくなった人のことだった。

彼は以前、文字を嫌っていた。
「声は消えるからいいんだ」と言って、よく笑っていた。
けれどある日、彼の声が世界に残った。
私に向けて言った最後の言葉が、あまりにもはっきりと、あまりにも残酷な形で文字になってしまったからだ。

「さよなら」

その文字は今も、どこかで漂っているはずだ。

私は回収した無音の文字を保管庫に持ち帰らず、ポケットに入れたまま歩いた。
夕暮れの街で、声を出さずに泣く人たちを横目に見ながら。

夜、誰もいない部屋で、私は初めてその文字に話しかけた。
声を出すのが怖かった。
新しい文字が生まれるのが怖かった。

それでも、小さく息を震わせる。

「……聞こえていますか」

言葉は、文字にならなかった。
その代わり、ポケットの中の無音の文字が、かすかに揺れた。

翌朝、その文字は消えていた。
床にも、空にも、私の中にも、痕跡は残っていない。

けれど不思議と、胸は軽かった。

声が文字になる世界でも、すべてが記録されるわけじゃない。
誰にも読まれず、形にならず、確かに交わされた何かは、今もこの世界の隙間で、静かに生きているのだと思う。

私は今日も、声の落とし物を拾いに行く。
消えない言葉と、消えてしまった想いの、その境目を歩きながら。