その横断歩道では、信号が青に変わっても、すべてが一緒に渡れるわけではなかった。
駅前の大通りにある、ありふれた白線の並び。
通勤客も学生も、誰もが無意識に足を踏み出す場所だ。
ただひとつ違うのは、ここでは人の感情だけが、たまに取り残されることだった。
理由は誰にも分からない。
赤から青へ変わる瞬間、焦りや迷い、言いそびれた言葉や、しまい忘れた悲しみが、靴底から剥がれ落ちるように白線の上に残るのだ。
それらは形を持たないが、確かにそこに「ある」気配を放っていた。
私は市役所の臨時職員として、その横断歩道を管理する仕事をしている。
正式な名称は「感情滞留箇所確認係」。
要するに、置き去りになった感情を回収し、記録し、行き先を決める役目だ。
今朝、信号が三度変わったあと、白線の中央に小さな温度の塊を見つけた。
触れると、胸の奥がきゅっと縮む。
これは後悔だ。
たぶん、誰かが振り返らずに渡ったのだろう。
私はそれを拾い上げ、ノートに日時と性質を書き留める。
「九時十二分、軽度の後悔。未練を含む」。
感情はすぐに薄れていくから、急がなければならない。
正午前、学生らしき人影が横断歩道の手前で立ち止まった。
信号は青なのに、渡らない。
視線が白線をさまよい、やがてこちらに気づいた。
「ここ、何か落ちてますか」
そう言われて、私は一瞬言葉に詰まった。
原則として、感情の持ち主にこちらから名乗り出ることはない。
でも彼の足元には、確かに淡い揺らぎがあった。
置き去りにされたばかりの、期待と不安が混ざった感情だ。
「……たぶん、あなたのです」
彼は困ったように笑った。
「やっぱり。告白しようと思ってたんですけど、青になった瞬間、急に怖くなって」
私はその感情を差し出した。
彼が受け取ると、揺らぎはすっと胸の中へ戻っていく。
「戻るんですね」
「持ち主が迎えに来れば」
彼は深く息を吸い、横断歩道を渡りきった。
背中が人波に溶けるのを見届けて、私は少しだけ信号を長く見つめた。
すべての感情が、迎えに来てもらえるわけじゃない。
それでもこの場所があるのは、置き去りになったままでも、感情は消えずに待っていると知ってもらうためだ。
次に青になるまで、私は白線の上に残る微かな温度を、ひとつずつ確かめ続ける。
ここは、感情が遅れて渡るための、ほんの短い停留所なのだから。


