市役所の地下三階にある落とし物センターには、案内板に載っていない部署がひとつある。
「未来課」。
正式名称はもっと長いらしいが、誰も正確には覚えていない。
未来課に届けられるのは、財布や鍵ではない。
まだ起きていない出来事の落とし物だ。
私が配属された初日、先輩は倉庫の棚を指さして言った。
「ここにあるのは、誰かが落とした“未来”だよ」
棚には透明な封筒や、ひび割れた小瓶、音の出ないオルゴールが並んでいた。
どれにも日付と名前が書かれている。
十年後、三年後、あるいは明日。
「人はね、強く迷った瞬間に未来を落とすことがある。選ばなかった可能性が、ここに届くんだ」
私の仕事は、それを元の持ち主に返すことだった。
ただし、本人が「取りに来た場合」に限る。
未来課に来る人は皆、どこか決定的に疲れた顔をしている。
夢を諦めた人。
別れを選んだ人。進まなかった道を、心のどこかでまだ探している人。
ある日、「未使用の未来一件」と書かれた封筒が届いた。
差出人欄は空白。
日付は五年後。
中には、小さな紙切れが一枚だけ入っていた。
――あなたはまだ、間に合う。
その文字を見た瞬間、胸がざわついた。
それは私自身が、ずっと欲しかった言葉だったから。
数日後、その未来を探しに来た人はいなかった。
規則では、一定期間を過ぎた未来は廃棄される。
消去ボタンを押せば、可能性は完全に失われる。
私は迷った。
そして、名前のない封筒をそっとポケットに入れた。
夜、帰宅途中の駅で、私は立ち止まった。
分かれ道だった。
ここで降りれば、昔諦めた夢にもう一度手を伸ばせる。
通り過ぎれば、今まで通りの安全な未来が続く。
ポケットの中で、封筒がかすかに温かくなった。
誰かの未来。
それとも、私の。
電車が来る音が響く。
私は一歩、前に出た。
翌日、未来課の棚から、ひとつの封筒が消えていた。
記録にはこう残っている。
――持ち主不明の未来、返却完了。
先輩は何も言わなかった。
ただ、少しだけ優しく笑った。
落とし物センター未来課は、今日も静かに開いている。
まだ起きていない出来事を、忘れてしまった誰かが、いつか思い出すその日まで。

