世界には、忘れる速度がある。
人が思い出すよりも少しだけ早く、出来事は背景へと溶けていく。
その速度を測る仕事を、私はしていた。
正式な職名は「記憶観測員」。
けれど実際には、世界が思い出す前に消えてしまうものを、そっと書き留める係だ。
観測室は街の端にある。
窓の外では、毎朝同じ犬が同じ角を曲がり、同じ信号で立ち止まる。
その反復すら、誰も意識しない。
私は机の上の薄い端末に、今日も小さな出来事を入力する。
七時三十二分、駅の階段で誰かが誰かを待つのをやめた。
八時五分、古い喫茶店のドアが軋んだ。
どれも、世界が「思い出」と呼ぶには軽すぎる出来事だ。
彼女に会ったのは、観測の帰りだった。
夕暮れの橋の上で、彼女は立ち止まり、川を見ていた。
水面には雲が映り、すぐに形を失う。
「それ、記録しますか」と彼女が言った。
驚いて振り向くと、彼女は私の端末を見て微笑んだ。
「消える前に、ですよね」
彼女もまた、観測員だった。
けれど彼女は違う部署に属していた。
「想起補助班」。
世界が思い出すのを、ほんの少しだけ助ける仕事だという。
忘却と想起、その間に立つ人間がいることを、私はそのとき初めて知った。
私たちは何度か会った。
橋の上、図書館の閉架、夜明け前の駅。
彼女は言った。「全部は残せない。
でも、残そうとした痕跡は残る」その言葉が、私の中で何度も反響した。
ある日、観測室に通達が来た。
記憶の圧縮が進み、観測員の数を減らすという。
私の名前は、リストの最後にあった。
世界は、私の仕事を思い出す必要がなくなったらしい。
最後の出勤日、私は端末を持って橋へ行った。
彼女はもういなかった。
代わりに、欄干に小さな傷があった。
誰かが何かを刻もうとして、やめた跡。
私はそれを記録した。
時刻、風の温度、川の色。
そして、世界がまだ気づいていないという事実。
仕事を失っても、私は書き続けている。
紙のノートに、名前のない出来事を。
世界が思い出す前に、世界が思い出さなくてもいいように。
いつか誰かがこのノートを見つけたら、それで十分だ。
思い出されなくても、確かにここにあった。
そのことだけが、私たちを未来へつなぐのだから。


