心拍より遅い手紙

面白い

この町では、手紙は心拍より遅く届く。
郵便局の壁にそう書かれた古い注意書きを、私は何度も読み返していた。
赤茶けた文字は擦り切れ、まるで鼓動の数え方を忘れてしまった心臓のようだった。

手紙を投函するとき、窓口の人は必ず尋ねる。
「どのくらい遅くても、待てますか」。
時間ではなく、覚悟の問題なのだと、ここに来てから知った。

私は君に宛てた手紙を胸に抱えていた。
紙は薄く、文字は軽い。
それなのに、封を閉じた瞬間から、胸の奥が重くなった。
君がこの町を出てから、もう三年が経つ。
心拍はその間、一度も止まらなかったのに、言葉だけが置き去りになっていた。

この町の郵便配達人は、走らない。
自転車にも乗らない。ただ歩く。
一歩進むたびに、誰かの鼓動を数えるように、ゆっくりと。
だから手紙は、送り主の気持ちが落ち着くまで、決して届かないのだと言われている。

私は窓口で「一番遅くていいです」と答えた。
職員は少しだけ微笑み、「それなら、あなたの心拍が変わる頃でしょう」と言った。

帰り道、胸に手を当てると、確かに鼓動は一定ではなかった。
君の名前を思い出すたびに速くなり、書かなかった一文を思い出すたびに遅くなる。

夜、私は自分宛ての手紙を受け取った。
差出人は空白だった。
中には短い一文だけがあった。
「まだ、送らなくてもいい」

この町では、手紙は返事をする。
宛先に辿り着く前に、送り主の心に問いかけるのだ。

それから私は、毎日同じ手紙を書き直した。
「元気です」という嘘を消し、「会いたいです」という言葉を足し、また消した。
心拍は少しずつ、穏やかになっていった。

ある朝、胸の鼓動が驚くほど静かだった。
不安も後悔も、眠っているようだった。

郵便受けに、君からの手紙が届いていた。
消印は三年前。
中身はたった一行だった。
「いつか、遅れてもいい言葉を待っています」

そのとき、私はようやく理解した。
この町で手紙が遅れるのは、失われるためではない。
心拍と同じ速さで届いてしまったら、言葉はきっと、生き残れないのだ。

私は再び郵便局へ向かった。
今度は迷わず、手紙を投函した。
心拍より遅くてもいい。
君に届く頃、私の言葉は、ちゃんと呼吸しているはずだから。