その駅は、地図にも記録にも残らない。
利用者もほとんどいないが、まったくいないわけでもない。
ただ、誰もが降りた理由を思い出せないだけだ。
私は確かに別の場所へ向かっていた。
朝の通勤列車、いつもの時間、いつもの車両。
気づけば扉が開き、身体が勝手にホームへ降りていた。
振り返ると、列車は音もなく去っていき、行き先表示だけが空白のまま揺れていた。
駅名の看板はある。
けれど文字は最初から滲んでいて、読もうとした瞬間に意味を失う。
声に出そうとすると喉が空振りし、頭の中には「ここ」という曖昧な輪郭だけが残った。
ホームには時計がひとつあるが、針は常に同じ角度を指している。
時刻を示していないのに、なぜか「遅れてはいけない」と思わせる不思議な形をしていた。
ベンチに腰を下ろすと、先客がいた。
年齢も性別も思い出せないほど薄い存在で、ただ穏やかに微笑んでいる。
「ここ、初めて?」
そう聞かれた気がした。
けれど声は風に紛れて、意味だけが残る。
私は頷いた。するとその人は、懐から小さな切符を取り出した。
日付も行き先も印刷されていない、白い紙切れだった。
「帰るときに使うの。忘れないように」
受け取った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
なぜか、これを持ってはいけない気がしたのに、理由が思い出せない。
構内放送が流れる。
音は聞こえるが、言葉にならない。
それでも人々は立ち上がり、ゆっくりと線路の向こうへ消えていく。
列車は来ない。
ただ「次」が来るだけだ。
私も立ち上がり、振り返った。
ベンチは空で、さっきの人の姿はない。
切符だけが手のひらに残っている。
改札を抜けた瞬間、視界が白くなる。
次に気づいたとき、私は自分の部屋にいた。
目覚ましが鳴り、遅刻しかけの朝。
昨日のことは何ひとつ思い出せない。
ただ、ポケットの中に折れた白い紙が入っていた。
何に使うものだったのかは、もう分からない。
それでも時々、電車を待つホームで理由のない寂しさを感じる。
行き先を忘れたまま、降りるべき駅を探しているような感覚。
あの駅の名前は、きっと一生思い出せない。
けれど、忘れられない何かだけが、今も胸の奥で静かに待っている。


