夜が終わる直前、世界はまだ自分の名前を思い出していない。
東の空がわずかに白みはじめるころ、私は駅前の橋の上に立っていた。
川は夜の名残を抱えたまま、黒とも青ともつかない色で流れている。
街灯はまだ消えきれず、星はもう戻る場所を失っていた。
その時間だけ、私には名前がなかった。
生まれてからずっと呼ばれてきたはずの音は、夜の終わりに溶けて、どこにも見当たらない。
呼ばれなければ、私は輪郭を失い、ただ息をしている存在になる。
昔、あなたが言ったことを思い出す。
「夜が終わる直前には、本当の名前が落ちているんだよ」
その意味を、私は長いあいだ分からずにいた。
名前は与えられるものだと思っていたし、名札のように、剥がれたら終わりだと信じていたから。
けれど今なら、少しだけ分かる気がする。
夜が終わる直前、人は誰にも呼ばれず、誰の期待にも属さない。
役割も過去も未来も、まだ朝に回収されていない。
その一瞬だけ、自分自身のための名前が、足元に落ちている。
私は橋の欄干に手を置き、目を閉じた。
遠くで始発電車の音がする。
パン屋のシャッターが上がる気配。
世界が再び名前を配りはじめる、その直前。
そのとき、胸の奥で小さく何かが鳴った。
声ではない。文字でもない。
ただ、「ここにいる」という確かな感触。
それが、私の名前だった。
誰かに呼ばれるためのものではなく、履歴書にも墓石にも刻まれない。
朝になれば忘れてしまう、夜明け専用の名前。
それでも確かに、私を私に結びとめていた。
目を開けると、空はもう朝の色をしていた。
街灯が消え、名前のない時間は静かに終わる。
私は橋を渡り、いつもの名前を取り戻す。
けれど知っている。
あの一瞬、夜が終わる直前にだけ呼ばれる名前が、今もどこかで私を待っていることを。
次の夜明けまで、それを失くさないように、私は今日を生きていく。


