引き出しの奥に、使われなかった言葉がある。
それは紙切れでも、音声データでもなく、ただ胸の内側に折りたたまれたまま残っている。
あの日、君が駅のホームに立っていたとき、私は確かに「さよなら」を用意していた。
何度も頭の中で発音し、声の高さや間の取り方まで決めていた。
泣かないこと、振り返らないこと、最後に微笑むこと。
すべて、うまくいくはずだった。
でも電車が来る前に、君は言った。
「またね」
その一言で、私のさよならは行き場を失った。
使われなかった言葉は、そのまま時間の隙間に落ち、回収されることもなく、今も私の中に残っている。
君が去ってから、季節はいくつも巡った。
駅前のカフェは閉店し、ホームのベンチは新しくなった。
街はきちんと前に進んでいるのに、私の中には未使用のままの言葉がひとつだけ、更新されずに残っている。
不思議なことに、その言葉は劣化しなかった。
時間が経つほど、かえって輪郭を増していく。
言えなかった理由、言わなかった勇気、そして言う必要がなかった優しさ。
そのすべてが、さよならの中に沈殿している。
ある夜、夢の中で君に会った。
夢の君は、あの日と同じ場所に立っていた。
電車はまだ来ていない。
私はようやく、引き出しからその言葉を取り出した。
「さよなら」
声にした瞬間、君は少し驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
「やっと使ったね」
目が覚めると、胸の奥が少し軽くなっていた。
未使用だったさよならは、夢の中で役目を終えたらしい。
それでも、完全に消えたわけではない。
引き出しの底には、薄い余白のような感触が残っている。
きっと、さよならには使用期限がない。
使われなかったとしても、無駄になることはない。
ただ、言葉にならなかった時間として、誰かの中に静かに残り続ける。
今日も駅を通り過ぎながら、私は思う。
あのとき言えなかったさよならが、今の私をここに立たせているのだと。
未使用のままでも、確かに意味はあった。
そう信じられるようになるまで、私はようやく、少しだけ前に進めた気がしている。


