世界が息を止めた一秒

面白い

その一秒は、誰にも気づかれなかった。

朝の交差点で、信号が変わる直前。
風がビルの隙間を抜け、コーヒーの匂いが漂い、誰かのイヤホンから漏れた音楽が空に溶ける、その瞬間だった。
世界は確かに、息を止めた。

音が消えたわけではない。色が失われたわけでもない。
ただ、すべてが「次」へ進むのを忘れた。
信号は黄色のまま、歩行者の足は宙に浮いたまま、空から落ちかけていた雨粒は、透明な水晶のように静止していた。

僕だけが、その一秒の中で呼吸を続けていた。

最初は、寝不足のせいだと思った。
けれど瞬きしても、世界は動かなかった。
隣に立つ彼女のコートの裾が、風に持ち上げられたまま、まるで時間そのものに縫い留められている。

不思議と恐怖はなかった。
代わりに、胸の奥に静かな懐かしさが広がっていく。
まるで、この一秒をずっと前から知っていたみたいに。

僕は歩き出した。誰にもぶつからない。
誰の影も揺れない。
止まった世界は、精巧な模型のようで、触れれば壊れてしまいそうだった。

交差点の中央で、僕は空を見上げた。
止まった雲の隙間に、わずかな青が見える。
その青を見た瞬間、思い出した。
忘れていた約束。
言えなかった言葉。
いつか言おうとして、結局時間に流された感情たち。

世界が息を止めたのは、きっとそのためだと思った。
誰かが追いつくのを待つために。
あるいは、置き去りにされた何かを拾い上げるために。

彼女の前に戻り、そっと顔を覗き込む。
止まった瞳の中に、今は届かないはずの言葉を、心の中でそっと置いた。
「大丈夫」と。
「あの時、確かに大切だった」と。

次の瞬間、肺の奥が痛くなる。
世界が、限界まで息を止めているのがわかった。

そして、一秒は終わる。

音が流れ込み、雨粒が弾け、信号が赤に変わる。
誰かが一歩を踏み出し、彼女のコートが揺れる。
世界は何事もなかったように、呼吸を再開した。

誰も気づかない。ただ僕だけが知っている。
世界が息を止めてくれた、たった一秒のあいだに、確かに救われたものがあったことを。

交差点を渡りながら、僕は胸いっぱいに息を吸った。
もう止まらなくていい、と世界に伝えるように。