感情の誤差範囲

面白い

その世界では、感情は数値で管理されていた。
胸に埋め込まれた小さな計測器が、喜び、悲しみ、怒り、愛情を測定し、日々の生活に支障が出ないよう調整する。
表示されるのは「許容誤差 ±3%」。人間らしさを失わないために設けられた、わずかな揺らぎだった。

私の誤差範囲は、いつもぎりぎりだった。

朝、目覚めたときの幸福度は基準値より2.8%低く、コーヒーを飲んだ瞬間に1.2%上がる。
通勤電車で誰かの肩に触れると、理由のない不安が0.9%増える。
そんな小さな変動を、私は無意識にやり過ごしていた。

彼と出会ったのは、感情調整センターの待合室だった。
数値の異常が続く者だけが呼び出される場所で、白い壁と無音の空気に囲まれていた。

「誤差、出てます?」

彼はそう言って、少し困ったように笑った。
その瞬間、私の胸の計測器が小さく震え、数値が跳ねた。

+3.1%。

許容範囲を、わずかに超えていた。

本来なら警告が鳴るはずだった。
でも、そのときはなぜか何も起こらなかった。
私はその沈黙に、理由のわからない安堵を覚えた。

彼の誤差は、私よりも大きかった。
誰かと話すたびに数値が揺れ、風景を見ただけで感情が傾く。
医師は「環境感受性が高すぎる」と言ったけれど、彼はそれを少し誇らしげに受け止めていた。

「世界って、誤差だらけですよね」

帰り道、彼はそう言った。
夕暮れの色が、規定よりわずかに赤く見えた気がした。

私たちは何度か会い、言葉を交わした。
そのたびに、私の感情は微妙に逸脱した。
彼の声を聞くと安心度が上がり、別れ際には寂しさが基準値を超える。

センターからは再調整を勧める通知が届いた。
誤差が大きくなりすぎれば、感情は均され、記憶の一部が削除される。

「直しますか?」

彼はそう聞いた。
数値を正常に戻せば、私たちはきっと、ただの他人になる。

私は自分の胸に手を当てた。
計測器の冷たい感触の奥で、数値にできない何かが、確かに動いていた。

「誤差のままで、いい」

そう答えた瞬間、表示は大きく乱れた。
±3%の枠が、静かに消えていく。

世界は少しだけ不安定になった。
でもその揺らぎの中で、私は初めて、自分の感情を信じられた気がした。

誤差とは、間違いじゃない。
生きている証明なのだと、彼の隣で思った。